集団規定における現状と枠組みの再構築について
このブログは現行の、都市計画法・建築基準法・景観法の集団規定による居住環境の問題を整理し、地域性を反映できる集団規定への転換方法を研究するものである。良好な居住環境の形成を目的とする今後の法規制の構築のための基礎資料を提供する、序論的考察を試みた。
敷地の狭小化や細分化、建築形態の歪化、街並みの不連続性について指摘されることが多い。基盤整理が伴わないまま市街化が進んだこと、更に画一的にルールを定めた建築基準法により、どこの住宅地でも同じような形態と問題を抱えるようなった。また都市部の密集市街地対策の必要性は常に論じられている。
 このブログでは、都市計画法・建築基準法、景観法が規制・誘導を目的とした法律であることを踏まえる。その上で建築・都市形成の法手続きを調査し・分析し集団規定の枠組みを提案することが必要かつ適した方法と考える。都市計画や都市法は、単なる都市工学的な理論・技術やその法的反映としての技術的諸制度の集成や体系ではなく、その都市に生きる人々にとって価値ある内容の都市づくりを保障するような社会的調整の制度的技術と手続を組み込んだものであることが必要なのである。
 集団規定の枠組みの構築により、都市の事情、要請、個別別にメニューを指定することができる。各都市には特殊な事情があり、それぞれ都市のあるべき姿としてマスタープランが制定されている。個性の異なる様々な都市が特別な規定によらず良好な居住環境を形成することができる。
 また集団規定については宅地の形状及び規模がそこにおける建築物の形態を制約し、ひいては市街地全体の形態をも制約している。これまで工学的見地からなされた集団規定の研究は多い。立法についても技術者、技術系官僚の関わる範囲・影響力は絶大である。法学的アプローチで規制の成立過程・目的・問題の整理、集団規定の影響を分析することで画一性排除が必要である。
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戦後の土地所有と土地規範(引用・要約) [2007年03月04日(日) ]
(すいません。資料紛失のため著者等情報がありません)

1 戦後の土地所有・利用構造−概観
国土と国民資産の構成
 わが国の土地の所有・利用構造を包括的に明らかにすることは、戦後についても依然として困難である。国土の所有構造を詳細に検討できる統計資料は、現在もなお作成されていないからである。それゆえ、各省庁がそれぞれの関心に応じて作成した統計データを、さまざまな仮定のもとに加工・統合することで実態に接近するしかない。表1は、そうした試みの1つである。1980(昭和55)年現在の国土(3777万ヘクタール)の地目別構成は、シェアの大きい順に、森林・原野(68%)、農用地(15%)、宅地(4%)、その他(14%)となっている。その他を除いた国土の所有主体別構成は、私有地65%(個人有地57%、法人有地8%)、国公有地35%である。ただし「その他」には、道路や水面・河川など公共的性格の強いものが220〜230万ヘクタールほど含まれている。これを勘案すると、国公有地面積は40%弱に達する。同時期の諸外国の国公有地比率は、アメリカ41%(1974年)、イギリス18%(75年)、西ドイツ32%(73年)となっており、日本の国公有地比率は相対的に高い水準にある。ただし日本の場合、国公有地の大半が森林に集中しているのが特徴的である(森林の国公有地比率は43%)。私有地の個人・法人別分布では、農用地で個人有の比率が圧倒的に高いのに対して、宅地(とくに非住宅用地)で法人所有の割合が相対的に高くでている。
 1974(昭和49)年に国土庁が設置されて以降、土地の所有・利用構造に接近するための資料はしだいに整備されてきた。以下、主として国土庁(現国土交通省)が作成・刊行してきたデータを利用して、戦後、とりわけ現段階における土地の所有・利用構造を概観しておくことにしよう。
 図1によれば、国民資産に占める土地の比率は25〜30%水準で推移していた。土地資産比率は1980年代後半の「バブル経済」期に急上昇し、1990(平成2)年に33%とピークを記録したあとは一転して低落傾向に陥った。しかしながら諸外国との比較では、日本の土地資産比率は依然として突出した高さにある。アメリカ・イギリスの土地資産比率は10%以下であるのに対して、日本ではその3倍前後の水準を維持しているからである。1996(平成8)年末現在の日本の土地資産額は1740兆円に達するが、これはアメリカ(1994年末)の約4倍、イギリスの約11倍に匹敵する。1平方メートル当り土地価格で比較すると、日本が4605円なのに対し、アメリカは46円、イギリスは622円と格差は一層拡大する。1平方メートル当り国内総生産(GDP)は、日本はアメリカの10倍強、イギリスの2倍前後にとどまっていたから、土地資産額における格差は日本における土地生産性の高さだけで説明できないことを示している。この背後には、各国の土地所有構造や土地政策の違いが隠されているのである。

土地利用転換
 土地の資産価値が膨張した高度成長の時代は、土地利用面では宅地・道路のような都市的土地利用の拡大した時代だった(表2参照)。1965(昭和40)年から1999(平成11)年にかけて、宅地は2.1倍、道路は1.5倍にふえた。一方、農地・原野は大きく減少した(減少率はそれぞれ23%、60%)。この間の農用地の減少面積は148万ヘクタールにおよんだが、これは宅地・道路の増加面積(計136万ヘクタール)にほぼ見合っている。森林面積は、都市的利用への転換による減少を農用地・原野の林地化がほぼ相殺したため、総面積はほぼコンスタントに推移した。
 表3によると、1975(昭和50)年以降四半世紀のあいだに、都市的土地利用は89万ヘクタールの拡大をみたことがわかる。年率にして3万6000ヘクタールの拡大テンポとなる。内訳は、住宅地と公共用地とがともに29%を占め、以下、工業用地17%、レジャー施設用地12%、その他の都市的土地利用13%となっている。都市的土地利用への転換源としては、農地が67%と過半を占め、ついで林地の28%、埋立地5%となっている。住宅地やその他の都市的土地利用が主として農地に供給源を求めているのに対し(80%強)、レジャー施設用地は主として林地からの転換によっている。日本の大都市は河川最下流部に発達した平野部に立地したが、こうした平野部は農業適地でもあったから、都市的土地利用と農業的土地利用が競合関係に陥りやすい傾向を本来もっていた。とりわけ都市部へのアクセスが重視される宅地については、もっとも農業的土地利用と競合しやすかった。これに対し、大面積と1ヶ所へのまとまりを必要とするレジャー施設用地は、地価の安い林地に需要が向けられたわけである。レジャー活動の中味によっては、林地への立地を必須とするケースも少なくなかった。
 住宅地に匹敵するシェアを占めた公共用地の供給源は、農地63%、林地34%、埋立地3%と林地の比重がやや高くなっているが、工業用地については農地68%、林地22%、埋立地9%と埋立地の比率が高くでている。工業用地に占める埋立地の比率は、表3がカバーできていない高度成長期にはさらに大きかった。新規に造成された工業用地に占める埋立地の割合は、1966(昭和41)年25%、69年18%、71年12%ときわめて高い比率を占めた。土地所有者など既存の利害関係者の存在しない埋立地は、土地調達のもっとも容易な方法として活用されたのである。

私有地の所有構造
 1993(平成5)年以降5年ごとに国土庁(現国土交通省)が実施している「土地基本調査」は、私有地の所有構造について有益な手がかりをあたえてくれる。表4によると、1998(平成10)年時点の土地所有者数は、法人63万、世帯2385万におよぶ。法人で土地を所有しているのは全体の3分の1でしかない。多くの法人は事業用の土地や建物を借入で調達しているわけである。これに対し世帯では、その過半が持家に居住している(現住居敷地所有率54%)。
 所有面積のシェアは、法人19%、世帯81%と圧倒的に世帯の比率が高い。宅地所有については法人・世帯間にそれほどの差がないのに対して、面積シェアの大きな農地・山林の所有が世帯に集中していることがその理由である。しかし宅地に限定すれば、法人・世帯でほぼ等分している(以上、面積については1993年の数値)。
 上記のように「土地基本調査」の情報は有益であるが、抽出標本からの推計値であるという制約をもっている。また現在利用可能なデータが1993・96(平成5・8)の両年に限られるため、長期の変化を追うことができない。こうした制約をある程度カバーしてくれるのが、自治省税務局が毎年刊行する『固定資産の価格等の概要調書』である。
 表5は、同『調書』をもとに、2000(平成12)年1月1日現在の地目別土地所有状況を示したものである。これによれば、課税対象土地面積は1627万ヘクタールで、国土全体の43%、私有地全体の76%を占めている(表1との対比)。
 地目別では、農地541万ヘクタール(構成比33.2%)、宅地155万ヘクタール(9.5%)、山林・原野874万ヘクタール(53.7%)、雑種地など57万ヘクタール(3.5%)となっている。国土全体の地目構成と比較すれば、山林の比率が相対的に低下する一方で、農地・宅地のシェアが高まっていることがわかる。山林における国有地比率の高さを反映したものである。
 表5の地目構成を、評価額で算出してみると、地積の構成比とは様相を異にする。農地5.0%、宅地88.2%、山林・原野0.3%、雑種地6.3%となり、農林地の地位が大幅に低下してしまう。経済価値、とりわけ税務上の評価額で比較すれば、宅地が突出した構成比をとることになるわけである。
 法定免税点以上の「土地所有者(T)」の合計は6285万(個人97%、法人3%)と厖大な数になる。表注に記したように、同一の所有者でも所有する土地の地目や所在する市町村が異なると重複カウントされている点に注意が必要だが、この点を勘案しても土地所有者の数は厖大である。個人所有の比率は、地積で85.5%、決定価格では72.9%と、所有者数のシェアよりも小さくなっている。所有規模ならびに土地価格の双方で、法人が個人を大きく上回るためである。
 『調書』が把握する土地所有者の時系列的変化を追ったのが表6である。土地所有者の実数により近い「土地所有者(U)」(地目間重複カウント調査済み)は、1961(昭和36)年に1649万人であったが、70(昭和45)年に2000万人を、80年代半ばには3000万人を超え、2000年には3708万人へと2.2倍に増加している。この間、田畑や山林・原野の所有者が漸減したのに対し、宅地ならびに雑種地(ゴルフ場・遊園地・鉄軌道用地など)のそれは激増した。「土地所有者(U)」の6割強と最大のシェアを占めるにいたった宅地所有者の増加はとりわけ顕著で、1961年から2000年までのあいだに3倍増を果たしている。1975(昭和50)年を境とする統計の不連続には注意が必要だが、一般都市住民の宅地所有に相当する「住宅用地」の所有者数は、同じ期間に7倍弱へと激増している。国民の多くが、この間に零細地片を宅地として所有するようになったわけである。
 平成11年度版『調書』は、「納税義務者」の課税標準額別の分布を教えてくれる。それをもとに作成したのが表7である。「納税義務者」の半分近くが課税標準額100万円以下の零細所有者である。これに100〜500万円未満層を加えると、全体の85%を含むことになる。地積の分布はそれほどの不平等を示さない(ジニ係数=0.30)。「土地所有者」がもっとも分厚く集中する100〜500万円未満層に、総地積の44%が帰属しているのである。これに対し、土地の経済価値を反映した決定価格の階層分布は著しく上位にかたよっている。「土地所有者」のわずか0.9%でしかない課税標準額1億円以上層で、決定価格の33%を占めている。「決定価格」のジニ係数は0.74と、不平等度の高い分布を示すのである。複数市町村に土地を所有する者を『調書』が合算できていないことを勘案すると、経済価値で評価した土地所有の不平等度は、表7が示す以上に高いとみなければならない。

地価の動向
 国民の土地所有観に大きな影響をおよぼし、土地の資産保有意識を蔓延させた直接の契機が地価の高騰であった。そこで、戦後の地価動向を概観しておこう。
 図2は、市街地価格指数と関連経済指標の長期動向を示したものである。
 1955(昭和30)年から2000(平成12)年にかけて、市街地価格(全用途平均)は46倍に上昇した(住宅地が最も上昇率が高く66倍、ついで工業地47倍、商業地31倍。市街地価格のピークはバブル経済渦中の1991<平成3>年で68倍)。6大都市の上昇率はさらに顕著で、上記期間に全用途平均の市街地価格指数は60倍(最も値上がり率の高かった住宅地では94倍)に達した(ピークの1991年には172倍)。これに対し、同期間における関連経済指標の上昇倍率は、名目国内総支出59倍、国内卸売物価指数2.1倍、消費者物価指数6.1倍であった。都市化の影響をもっとも顕著に反映する市街地価格が、一般物価に比較していかに高騰したかが理解できるだろう。しかしながら「バブル期」の破綻とともに市街地価格は急落し、ピーク時(1991年)価格の3分の2(全国)、6大都市では3分の1の水準にまで落ち込んだ。この結果、市街地価格水準は国民経済成長とほぼ見合う水準にまで低下した。しかしながら戦後の地価動向をみるならば、1991年以降の動きは例外的な現象であり、長期間にわたって地価は、諸物価はおろか国民総生産(GNP)の成長率をもはるかに上回るテンポで上昇し続けたのである。
 図2を仔細に観察すると、市街地価格が戦後3期にわたって急騰したことがわかる。
 第1期は1950年代後半から60年代初頭にかけての時期である。第2次世界大戦後しばらくのあいだ、地価は一般物価を下回る水準にあった。しかし経済復興が本格的に開始される1950年代にはいると地価の急騰が始まり、図2が示す50年代後半から60年代初頭にかけて、物価指数はもちろんGNP成長率をも大きく上回る上昇率を示した。この時期の地価高騰は工業地が先導し、住宅地・商業地がそれに続いた。高度経済成長にともなう旺盛な設備投資が工業用地需要を呼び起こしたこと、また人口の都市集中にともなう住宅用地需要の増大に、宅地供給の不足と投機的な需要も加わったことがこの背景にあった。
 第2の地価高騰期は1970年代前半である。住宅地がこの時期の地価高騰をリードしたが、工業地・商業地も高い上昇率を示した。企業の事業用地需要ならびに都市部への人口集中にともなう住宅用地需要が引き続き増大したのに加えて、「ニクソンショック」後の財政拡大・金融緩和などによる過剰流動性の増大と列島改造ブームを背景とする投機的な需要が激しい地価高騰を生み出したのである。
 地価高騰の第3期は、1980年代半ばから90年代初頭にかけての「バブル経済」期である。この時期の特徴は、6大都市の商業地価格が地価上昇をリードし、それが工業地・住宅地へと波及していった点にある。都市部の事務所ビル需要の急激な増大が商業地価格の上昇を招き、これに金融緩和による過剰流動性と住宅地の買換え需要の増大、さらに投機的需要の増大が重なって、爆発的な地価上昇をもたらした。都心部に発生したこの地価高騰は、その後タイムラグをともないながら周辺地域および他の主要都市に波及していき、「バブル経済」の跳梁をもたらすこととなった。
 都市的土地利用の重要なファンドであり続けた農地の価格変動は図3のようであった。農地価格の動向は市街地価格のそれとはかなり異なった軌跡をたどっている。農地価格がもっとも高騰したのは終戦から1950年代前半にかけてであった。1940年代後半の未曾有の農地価格高騰は、厳しい食糧難とインフレーションがもたらした。食糧事情が一息ついた1950年代前半期の農地価格高騰は、食糧生産の順調な回復(1955年の米大豊作)と農産物価格の好転による農業収益条件の改善がもたらしたものであった。その後農地価格は、1950年代後半から60年代前半期にかけては、落ち着いた動きを示した。オイルショックによる物価高騰に列島改造ブームが加わった1970年代初頭には年率20〜30%の農地価格上昇をみたものの、それ以後は安定した推移をたどっている。円高のもとで農産物輸入が激増する1980年代半ば以降、農地価格はまったく沈静化し、90年代にはいるとマイナス基調に転じているのである。
 しかしながら注意すべきは、図3が示す農地価格は農業的利用(「自作地として耕作する場合」)を前提とした価格に限定されていることである。都市的利用がおよぼす農地価格への影響はあらかじめ遮断するように設計されているのである。周知のように転用価格を考慮に入れた農地価格は、農業的利用を前提とした価格の動向とは違った軌跡をたどるし、その水準も大きく異なる。たとえば、自作地として耕作する場合の農地価格は、2000年では10アール当り田107万円、畑61万円であった。しかし、転用価格が反映されているとして同調査が排除したケースの平均価格は、3大都市圏を除いても田941万円、畑721万円であった。両者のあいだには10倍前後の開きがあるのであって、市街地価格高騰の影響は、転用価格をとおして農地価格にも広範に浸透しているのである。
 以上のように、戦後日本の土地価格は経済の基礎条件をはるかに上回るテンポで上昇し続けてきた。1990年代初頭に「バブル経済」が破綻するまでは、地価が下落することはありえないという「土地神話」が多くの人々をとらえていた。またこの過程で、土地所有を富蓄積のもっとも簡便かつ確実な方法とみなす観念(「土地本位制」的観念)が、経済社会の隅々まで浸透していったのである。

2 農地所有の構造と所有意識
農地改革と土地規範
 農地改革は、191.7万ヘクタール(改革直前の小作地総面積の82%)もの農地を、国の直接介入のもとで小作農民に開放した。戦前期の農地所有は、頂点に小数の巨大地主を、底辺部には膨大な数の零細土地所有者を配するという、すそ野の広い山のような形を示していた。しかしながら農地所有の不平等度は、けっして小さくなかった。農地改革は、在村地主の保有限度(都府県平均1町歩、北海道4町歩)を除くすべての小作地を強制譲渡の対象としたから、農地の所有構造は一挙に平等化した。さらに農地改革法では、都府県平均3町歩(北海道12町歩)を超える自作地についても、その耕作が適切でないものは買収の対象とした。この結果、農地所有の上限は原則として3町歩(都府県)で画された。きわめて平等化された農地所有構造をとるにいたったのである。
 農地改革の成果を受けて1952(昭和27)年に制定された農地法は、第1条で以下のように述べている。すなわち、「この法律は、農地はその耕作者みずからが所有することを最も適当であると認めて、耕作者の農地の取得を促進し、その権利を保護しその土地の利用関係を調整し、もって耕作者の地位の安定と農業生産力の増進とを図ることを目的とする」。ここでは、「耕作者の地位の安定と農業生産力の増進」という課題を解決するにあたって、農地を「耕作者みずから」に「所有」させることがもっとも望ましいという政策理念が表明されている。所有権の付与をとおして耕作権を保障しようという政策理念である。自作農を望ましい姿として想定する「耕作者主義」だと言い換えてもよい。しかしながら問題とすべきは、所有権が耕作権を保障するという農地改革のこの想定が、どのような状況のもとでも普遍的に成り立つかどうかという点である。
 農地改革を現時点で再評価する場合、もっとも注目すべきは、農地の所有・利用には社会的責務がともなっていることを明確にした点にある。農地所有・利用にかかわる公共性を強調する農地改革のこの理念は、農地改革違憲訴訟をとおしてしだいに明確となっていった。
 農地改革への地主の抵抗は、土地取上げと農地買収に対する異議申立て・訴願という手段で展開されたが、農地改革自体の正当性を問題にする違憲訴訟もあわせて提起された(第1審だけで1950<昭和25>年までに119件提訴)。農地改革違憲論の主張は、(1)自作農創設のために国が農地を強制的に買収してこれを小作人に売り渡すことが憲法29条3項の「公共のために用ひる」ものでなく、(2)買収価格もまた同項の「正当な補償」に値しないというものであった。これに対する判断は、(1)の問題については、下級審を含めて全判決が明示または黙示の形で合憲とした。また(2)の正当補償の問題については、下級審の判決は、完全補償説・相当補償説・中間説の3つに分かれたが、違憲とした判決はなかった(最高裁では完全補償説が多数見解)。
 最高裁が農地改革違憲訴訟に明確な判断をくだしたのが1953(昭和28)年12月23日であった。本上告審の直接の争点は農地買収対価の妥当性をめぐるものだったので、農地改革それ自体の合憲性については明確な言及がない。しかし買収対価の妥当性についての判断は、当然農地改革の公共的性格に深く関係していたから、判決文のなかにもこの点にかかわる記述をみることはできる。たとえば、憲法29条2項を踏まえた以下のような判断は、農地改革の公共的性格を容認したものだといえるだろう。「財産権の内容は、公共の福祉に適合するように法律で定められるのを本質とするから、公共の福祉を増進し又は維持するため必要ある場合は、財産権の使用収益又は処分の権利にある制限を受けることがあり、また財産権の価格についても特定の制限を受けることがあって、その自由な取引による価格の成立を認められないこともある」。さらに判決文は、戦時下において農地所有権への公共的規制が格段に強化された事実を的確に指摘している。すなわち、「…農地は自創法成立までに、すでに自由処分を制限され、耕作以外の目的に変更することを制限され、小作料は金納であって一定の額に据え置かれ、農地の価格そのものも特定の基準に統制されていたのであるから、地主の農地所有権の内容は使用収益又は処分の権利を著しく制限され、ついに法律によってその価格を統制されるに及んでほとんど市場価格を生ずる余地なきに至った…かかる農地所有権の性質の変化は、自作農創設を目的とする一貫した国策に伴う法律上の措置であって、いいかえれば憲法29条2項にいう公共の福祉に適合するように法律によって定められた農地所有権の内容であると見なければならない」。
 上記判決の本文には、農地改革のいかなる側面が公共の福祉に合致するかという点について明確な指摘はないが、本判決に先立つ大法廷判決(1953年11月25日)では、「自創法による農地改革は、本法1条にこの法律の目的として掲げられたところによって明らかなごとく、耕作者の地位を安定し、その労働の成果を構成に享受させるため自作農を急速且つ広汎に創設し、又、土地の農業上の利用を増進し以て農業生産力の発展と農村における民主的傾向の促進を図るという公共の福祉の為の必要に基づいたもの」と明言されており、本判決もこの認識を踏襲したものと考えられる。
 以上のように、農地改革を合憲だとした最高裁判決は、農地改革が前提とすべき農地所有規範をはっきりと示した。すなわちそれは、農村の民主化あるいは農業生産力の発展という高度の公共性をもつ目的のために、国が私有財産を正当な補償をもって買収することは、特定階層・特定集団の利害に基づくものではなく、全国民的な利害=「公共性」に基づいており合憲であるという判断であり、農地改革が創出した土地所有は、「その利用を公的に規制された、農業経営=農業的土地利用の法的基礎としての所有権として把握されていた」という理解である。前章までの考察で明らかなように、農村の伝統的土地規範においても、農地は単なる私的所有の対象ではなかった。農地は、イエの所有対象であり、またムラの管理下に置かれるべき特殊な財産であった。農地を自由な私的所有の対象とは考えない点で、農地改革もこうした伝統的規範意識と共通する側面を有していた。しかし、イエ・ムラの土地慣行や土地規範が踏まえていた公共性はムラという面識集団内部に限定されており、普遍的な公共性によって基礎づけられてはいなかった。これに対し農地改革法は、農地所有の公共性について、より普遍的な理念を導入したのである。

農地改革後の農地法制−農地所有への公共的規制の解除
 農地改革終了から農地法制定にかけてのプロセスは、農地改革法の基本的枠組みは継承されつつも、農地所有への公的コントロールを可能とする重要な手段がしだいに解除されていくプロセスとしてとらえることができる。むろん当時においては、そうした政策選択がもたらす帰結を見通すことは困難だったが、結果的に農地法の「自作農主義」は、公共的コントロールを解除された社会的拘束なき「自作農主義」に変質した。高度成長・バブル期にこの帰結が明瞭となる。検討すべきトピックスは、創設自作地に対する国の先買権規定の消滅、農地価格統制の撤廃、農地所有・利用への公的コントロール導入の挫折、の3点である。
 創設自作地に対する国の先買権規定の消滅  創設自作地に対する国の先買権規定は、農地改革の公共性をもっとも直裁に表現する規定であった。この規定は、連合国軍最高司令官総司令部天然資源局(GHQ・NRS)がきわめて重視した。農地を政府から買い受けたものが自作農をやめる場合の措置についてGHQはきわめて厳格であり、1946(昭和21)年4月にNRSが作成した覚書でも、6月28日にNRSスケンク局長が農相和田博雄に示した覚書案でも、政府が売り渡した農地は代金償還の有無を問わず30年間は譲渡禁止で、やむを得ない理由で政府が承認する場合でも政府が買い戻すべきことになっていた。結局、農林省は、創設自作農が自作をやめる場合は政府が買い戻すという無期限の先買権行使で対処することとした。しかし1950(昭和25)年7月、土地台帳法の賃貸価格が廃止され、農地の統制価格は基礎を失い先買権規定の運用が不可能となった。農林省は先買権規定の復活を断念し、政府が売り渡した農地が売却される場合は、売渡し後10年間について価格差の一部を政府に支払うことを命じる条項をポツダム政令にもりこむことで対処した。この規定は農地法に引き継がれたが、1950年代半ばには期限の10年間は経過終了し先買権規定は消滅することとなった。先買権規定が消滅した経緯については今なお不明な点が多いが、この時期農政官僚であった佐竹五六は、「こうした規制をいつまでも続けることは一般農地との均衡を失するという理由で継承され」なかったと述べている。
 農地価格統制の撤廃  農地改革後の農地価格統制については、日本側が積極的だったのに対しGHQは消極的だった。農地価格統制を続行する意向であった農林省に対し、NRSはその廃止を主張したのである。小作地所有規制と小作料統制さえ守られるならば地価統制は不要だというのがその理由であったが、私有財産権に直接タッチする価格統制に対してGHQは一貫して神経質だった。
 農地価格統制の継続問題が浮上するきっかけとなったのも土地台帳法の改正であった。同法の改正で、価格統制の基準であった賃貸価格制度が廃止されてしまったからである。政府は急遽ポツダム政令(「自作農の創設に関する政令」)を公布し、買収漏れ農地は従来価格で、改革後の所有制限該当農地は強制譲渡方式で移転させることとし、その対価を政府指定価格(7倍に引上げ)に設定した。
 農地価格統制問題は農地法制定過程でも改めて問題となった。地価統制の可否を問う質問に対して農林省の政府委員は、農地法3条3項の「第1項(農地および採草放牧地の権利移動−引用者)の許可は条件を付けてすることができる」という条項は、農地価格の高騰を抑制できる措置になりうるという解釈を示した。ところが、農地法制定後の農林次官通達(1952<昭和27>年12月)で、農地法3条3項を地価抑制に使うことはできないと解釈が変更され、以後、農業委員会としては手がつけられなくなった。この間の経緯は依然として詳らかでないが、前述の佐竹五六は、農地価格統制が失効した理由を、「農地価格が広範にかつ著しく高騰している状況の下において、政策の論理に忠実に統制することの行政的妥当性に対する反省が働いたとみてよい」と推測している。
 農地の公的管理構想の挫折  農地改革の実施が山場を超えた1948(昭和23)年の半ばごろから、農林省内部では改革後の農地政策に関する検討作業が開始されている。このうち初期のもっとも包括的なものが大和田啓氣私案であった。この私案は、農地改革後の課題を「農地改革の成果の上にたって農業経営を確立すること」、すなわち「零細経営の克服による生産力の増強」に求めているが、とりわけ注目されるのが、農地の効率的利用をはかるために、農地の国家的管理(ただし管理の主体は市町村農地委員会)を提起した点である。国家管理の具体的内容は、(1)市町村農地委員会に農地賃貸借の譲渡・設定を行う権能をあたえ、農地の有効利用促進の立場から耕作権を配分調整せしめる、(2)農地の交換分合を促進する、(3)農協による農地管理の途をひらく、(4)農地に関する所有権その他権利の設定・移転はすべて市町村農地委員会の承認制のもとにおく、(5)小作料の統制は継続する、などの諸点である。主として生産力視点に立脚し、農地の諸権利を強力に管理することをとおして農地改革過程で増大した飯米農家を漸次整理し、その農地を共同経営ないし中堅農地のもとに移動させ構造改革を促進するという構想である。また同時にこの大和田私案は、農地所有・利用の公共的正確を重視する農地改革理念を継承する構想でもあった。しかしながら大和田構想は、この段階では政府および占領当局の理解をえられぬまま忘れられていった。
 一定の地域的広がりを単位として農地の公的管理を実施するという大和田私案の発想は、その後も折をみて復活した。とくに農地構造改革に本格的に取り組もうとした農業基本法の議論の過程で、農地改革が設定した自作農的土地所有の扱いやその公的管理のあり方などが議論の対象になった。たとえば、1959(昭和34)年12月24日の第4回構造問題小委員会で事務局長小倉武一から「農地価格等を合理的水準に安定させ、且つ構造政策に寄与するため農地等の売買は政府機関において一元的に処理することにする」という試案が示され、それをめぐって議論がなされている。注目されるのは委員大内力の発言で、以下のような、一定の地域を単位とする農地管理システムが提起されている。「…土地制度の問題ですが、これはさっき小倉さんが言われたような国がやる1つの管理方式というのは、これは制度としてむろん考えていいことだと思いますが、私はやはりそれだけでは足りないんじゃないかといった感じがするのです。もっとそれを補完する意味で、どっちがどっちを補完するのか知りませんが、ある程度農地について、末端で一村単位で考えたらいいのか、部落単位で考えたらいいのかわかりませんが、1つの計画を持って、ある程度農家の間で共同で管理できるというような形を考えるべきじゃないか。」
 こうした議論を受けて最終答申(4節)にも、農地制度の改正点の1つとして「農地の公的管理の方式」の確立が掲げられることとなった。そこでは、農地制度の改正点として権利移動統制、小作地所有制限、小作料と農地価格などに関する事項が列挙されたのち、「これらのために、農地の必要限度の直接管理をする必要があろう。そのあり方や機構については検討を要するが、小作地保有制限、農地移動に関連して市町村段階における農地の公的管理の方式を確立する必要がある」と述べられている。さらに注目すべきは「市町村段階における生産技術の向上、経営構造の改善に関する計画とその実施との関連において、農地を共同的に管理する方法もこの公的管理の方式に含めて考えるべきであろう」と指摘している点である。『解説版』では上記の「市町村段階の公的管理の方式」について、「市町村に農地官のような管理行政の担当官を配置して直接管理をおこなう考え方、現行制度の農業委員会を活用する考え方」、「農業協同組合や土地改良区などの団体にこれに関する機能を賦与する考え方」などなどの考え方があるとし、管理の内容や範囲に応じて以上の数種の方式を複合することも考えられるとしている。さらに農地の共同的管理の例として、「田畑輪換農法を地域的に実施する計画と農民の農地に関する権利の調整のための共同管理、生産の協業化とこれに対応した農地の共同管理等」をあげている。
 農業基本法における上記の問題意識は、1960年代半ばの農地管理事業団構想に継承されていく。この構想は、農地の売買・賃借による移動を公的機関の介入により方向づけ、自立経営を目標とする経営規模拡大の方向に誘導するとともに、農地価格についても適正化をはかろうとしたものであった。しかし同法案は、1965・66(昭和40・41)年の2度にわたって国会に提出されたものの、与党の自民党からも抵抗を受けて廃案となった。離農対策を欠き基盤整備との結合関係も弱かったので構造政策としての総合性を具備しなかったこと、公的介入による選別政策が小農切捨てにつながると危惧されたこと、地価騰貴による事業量拡大に対する財政当局の疑問などが廃案の原因として指摘されている。しかし同時に、この当時農地価格が高騰しており、管理事業団が構想するような農地移動統制を展開しうる条件が失われていたことも重視すべきであろう。

地価高騰と農民の土地規範
 戦後農民の「土地規範」にもっとも大きな影響をおよぼしたのが地価の高騰であった。既述のように、戦後復興をほぼ終えた1950年代初頭以降地価は上昇を開始し、以後、一般物価の上昇率をはるかに上回るスピードで上昇した。農林地価格の上昇もまた著しかった。とりわけ、転用需要が見込まれる都市近郊農地やレジャー用地の候補となった農林地の価格は急上昇をみた。こうした地価高騰が農地の資産的所有意識を強めていったのは周知のところであるが、農家経済、とりわけその資金循環構造は、地価高騰の影響を直接受けることとなった。『農家の社会勘定』で把握された土地(転用)売却代金は1960(昭和35)年から傾向的に増加し、70年代初頭の狂乱物価期には3兆円を突破した(農業総生産額の80%強)。その後やや鎮静化するが、1980年代後半から90年代初頭の「バブル経済」期に再度急増し、近年では農業総生産額の80%弱の水準に張りついている。
 農地法制的過程で農地価格に対する公的コントロールが放棄されていったことはすでにみたが、農業基本法の議論の過程でも地価対策は本格的な議論の対象にならなかった。農業気品法が目標に掲げた自立経営農家の育成には農地の権利移動が不可欠であり、また当時の農地移動は自作地売買が主流だったから、農地価格問題は当然議論されてしかるべきだった。農基法の制定過程で地価問題がほとんど議論されなかったのは、今なお戦後農政史の大きな謎である。農業基本問題調査会の座長を務めた東畑精一は、「基本問題調査会をやった1年間に、地価の問題は一度も論じたことはない」と述べ、また「農林省は、地価が上がるのをむしろ喜んでいたふしがあった。農業の繁栄の証拠として。小倉は問題事項として地価問題も出すことにしていたが、農林省のなかでそれはやめておけということになって取りやめたらしい」と、地価問題が正規の議題にのぼらなかった理由を推測している。また大和田啓氣も、農地価格問題に関しては「農林省内にもいろんな意見があり、省として地価を下げるべきだというふうにはいえなかった。正面から地価高を歓迎することはなかったが、しがし上げちゃいかんというエネルギーもなかった。地価高は事実としてやむをえないとしても、地価高に応じた農地法などのいじり方が手遅れになったということは間違いない」と述懐している。一方、梶井功はこれとはややニュアンスの異なる理解を示している。事務局が用意した問題事項・検討事項のなかには地価問題が相当な項目ではいっていたのだが、それが基本問題調査会のなかで議論されることのないまま終ってしまった。この点は事務局長小倉武一もよく認識しており、農基法答申の説明の際に、地価問題が気がかりであり農林省としてこれへの対処を考えておく必要があると述べていた、というのである。事務当局が地価問題をまったく意識していなかったとは考えられないが、いったん解除した地価統制をもう一度復活させることの行政上の困難を強く意識したのであろう。
 農業基本法が地価問題への言及を避け、また農地管理事業団構想が最終的に挫折をみて以降は、農地価格を直接コントロールする制度を設計するチャンスは失われた。唯一残された可能性は、農地法の転用規制によって転用価格の農地価格への波及を遮断することだったが、転用圧力にさらされている都市近郊農地の価格動向からみると、それが有効に機能しているとはいえない。国土全体をカバーした土地利用規制システムが存在しない状況のもとでは、耕地一筆単位の移動統制を前提とする農地に、優良農地を保全し合理的な土地利用秩序を実現する機能を担わせるのはとうてい無理なことであった。逆に農基法以後の農政は、農地法の転用規制を緩和し農地価格の上昇を期待する農民感情にアピールする方向での政策選択を重ねていった。農業を取りまく外部環境の変化を理由として、農地転用許可基準がつぎつぎに緩和されていったのがその典型例である。農地法第4条・第5条の農地転用許可基準は法律や政令・省令の形ではなく次官通達や局長通達で指示されたが、こうした仕組みが転用許可基準の緩和をより容易にさせた。都市計画法・農振法によるゾーニングとその変更が、政権政党による集票手段として「活用」された実態についてもよく知られている。小土地所有者たる農民、とりわけ市街化調整区域農民の心理をたくみに揺さぶりつつ集票する仕組みである。
 地価高騰による農地の資産所有化は、農地所有権の内実をしだいに空洞化していった。農地の資産的価値がまず第一に重視され、それを損なう恐れがある場合には、耕作放棄や荒しづくりすら選択されるケースも珍しくなくなった。所有が耕作を保障するという農地改革の政策理念が、必ずしも妥当しないという事態が発生したのである。1985(昭和60)年から95(平成7)年にかけての10年間に、都市的地域の耕地面積は4割強も減少した。耕作放棄地率も高い(1995年4.2%)。このように、都市的土地利用への転換が期待できる都市近郊農村では、商品所有権の肥大化というルートで農地所有権の空洞化が進行した。
 過疎地・限界地においても、異なるルートで農地所有の空洞化は進行した。高齢化・過疎化の進行で農業生産の担い手が弱体化し、耕作放棄地が拡大していったのである。農業センサスによれば、1985年に5.3万ヘクタールであった中山間地域の耕作放棄地は、10年後の95年には8.7万ヘクタールへと6割以上も増大した(耕作放棄地率は2.8%から5.2%へ上昇)。また、この間の経営耕地の減少は26万ヘクタールにおよんでいる。耕地面積の減少には耕作放棄を原因とするものが少なからず含まれるので、これを加えると耕作放棄のインパクトは一層強まることになる。1990年代半ば以降、農地の潰廃理由において耕作放棄が都市的用途への転用を上回るにいたった。条件不利地域では、農地の経済的内実それ自体が急速に失われつつあることを示唆している。

3 宅地所有の構造と所有意識−大都市部を中心に
都市の宅地所有
 都市の宅地所有について、いくつかの事実を追加しておこう。
 第1は所有主体の問題である。既述のように土地所有者数では、個人所有が圧倒的であった(2000<平成12>年の土地所有者は、個人96%、法人4%)。しかしながら、所有面積では個人85%、法人15%とその格差は縮小する。とりわけ宅地に限定すると、法人所有は32%と無視できない比率を占めている。都市3区(千代田・中央・港)では、法人所有比率は7割を超えている。自治省編『固定資産の価格等の概要調書』によれば、1961(昭和36)年から2000年にかけて、法人所有地面積は4.7倍に拡大をみたのである(個人所有地面積は1.5倍)。
 法人所有地には、土地投機によるものが少なからず含まれていた。「バブル経済」崩壊直後の1993(平成5)年3月末現在、資本金1億円以上企業が所有する土地面積は、事業用土地93万ヘクタール、販売用土地9万ヘクタールであったが、事業用土地の9%、販売用土地の52%が未利用となっていた(未利用地面積は12万9000ヘクタール)。こうした企業の土地取得は、過剰資金をかかえた金融機関による旺盛な融資活動によって支えられていた。1992(平成4)年9月末現在の不動産業向け貸付残高は、銀行52兆4000億円(貸付総残高の10.5%)、ノンバンク上位300社24兆円(同37.1%)という巨額の規模に達していた。その結果、厖大な不良債権が発生し、金融機関の経営に多大の負担をあたえつづけていることはよく知られている。
 第2は、戦後日本の住宅政策が持家重視で一貫していたことである。表8によれば、ヨーロッパ各国と比較した日本の特徴は、(1)持家比率が高い(賃貸住宅が過半を占めるドイツと対照的)、(2)賃貸内部では公的主体が供給する社会賃貸の比率が極端に低い(サッチャー政権下で賃貸住宅の売却=持家化を積極的に進めてきたイギリスでも、賃貸の主流は依然として社会賃貸であるのと対照的)、といった点にある。戦前の東京では民間借家が住宅供給の7割程度を占めていたが、戦後にはこれが逆転したわけである。戦後持家率が急速に高まったのには、政府の住宅政策が持家供給を一貫して重視してきたことが関係している。政府は本格的な公営住宅建設に一貫して消極的であったし、ヨーロッパ各国が採用している家賃補助や家賃控除といった政策も導入されなかった。他方、持家促進のためには種々の助成措置が実施された。まず1950年代後半以降、住宅金融公庫による低利貸付が拡充されていった。税制面では、固定資産税の評価額が低く抑えられ、200平方メートル以下の小規模宅地にはさらに軽減措置がとられた。所得税にも住宅取得控除が設けられたし、土地譲渡益課税についても買替え特例措置によって課税回避の途が設けられていた。
 こうした持家重視政策の下で宅地所有数は急増していったが、その過程で宅地所有規模、とりわけ大都市部のそれはますます零細化していった。東京都を例にとろう。1999(平成11)年における個人の平均宅地所有面積は、区部で221平方メートル、市部で282平方メートルにまで縮小した(1980<昭和55>年に比し、それぞれ19%、13%減)。またこの過程で、100平方メートル以下の小規模個人宅地所有者の割合が高まり、1999年には区部45%、市部23%となっている。
 第3には土地の所有・非所有に規定された資産格差問題である。上記のように、大都市居住者の多くにとっては、零細な宅地片すら所有することは困難であった。都市勤労者にとってはマンション所有が現実的な選択肢であったが、「バブル経済」期には、それすら断念せざるをえない状況に追いこまれた。年収に対するマンション価格の倍率は、1986(昭和61)年の4.5倍から90(平成2)年の8.5倍へと急騰をみせたからである。国土庁『土地基本調査』が把握する世帯の宅地(現住居敷地)所有率は、全国平均54.4%であるが、これには年収水準に照応した格差が存在している。年収2000万円以上層では8割以上が宅地所有者であるのに対して、400万円以下層では50%以下に低下する。低所得層で宅地を所有している世帯では、購入よりも相続・贈与の比率が相対的に高くでることになる。年収500万円以下層で宅地を所有している世帯は、その3割以上が相続・贈与によっているのである。このように個人の宅地所有には、当該世帯の所得水準のみならず親世帯の資産格差が反映している。

土地所有権の日本的特質
 日本の土地所有権の特異性は、その商品性が最大限に保障された点に求められる。農地については、農地法の所有・転用規制がかろうじて商品性の自由な発言を抑制していたが、その他の地目については一般商品と同等の商品性が保障された。とりわけ商品性の高い都市の宅地所有にはこうした特性が顕著にあらわれた。地価高騰で発生したキャピタル・ゲイン(資本利得)を土地所有者が取得することは、たとえそれが当該所有者の労働や資本投下による成果でなくても当然視された。土地譲渡益課税は、短期保有時の譲渡には高率課税されたが長期保有土地は優遇された。また、買替え特例による土地譲渡益税の支払繰延べ措置が認められてきたため、土地売却がより大きな土地資産取得の契機となるケースも珍しくなかった。
 とりわけ重大なのは、企業の土地資産所有が優遇され続けた点である。企業所有の土地資産は取得原価(簿価)で評価されたため、地価上昇によって巨額の含み資産が形成されても課税対象として把握されることはなかった。この含み資産は、企業の財務力や資金調達力の強化におおいに役立ったが、土地の評価額を変えないかぎり固定資産税で補足されることがなかった。また企業は相続税の対象にもならないので、土地資産を売却してキャピタル・ゲインを実現しないかぎり課税されることはなかった。こうした税制上の利点が、法人の土地所有志向を高めたのである。
 商品性貫徹のいま1つの側面は、土地所有者の権限が極めて強固に保護されているという点である。よく指摘されるように、西欧諸国と比較して日本では、土地利用に対する公共的規制がゆるく、土地所有者にはきわめて高い自由度が許されている。土地所有権は当然に建築権を含むものと理解され、土地所有者は法律上の規制のないかぎりそれを自由に行使できた(原則としての「建築の自由」)。また、土地利用にかかわる公的規制も、後述のようにそれほど強いものではないし、多くの抜け道が用意されている。
 以上のように日本の土地所有権には、その商品性の発現を制約する要素がきわめて弱い。この結果、地価形成には市場の論理が貫徹するとともに、しばしば土地は投機的取引の対象とされてきた。

土地所有意識の特徴とその変化
 他の資産と比較して土地が優遇されるという制度的条件のもとで、土地所有を志向する国民の土地観が形成されていった。表9をみると、地価急騰の余韻がまだ残っていた1993、94(平成5、6)年では、土地を預貯金や株式に比べて有利な資産とみなす意見が全体の6割以上を占めていた。ただし、土地資産を有利とみなす国民のこうした意識も、「バブル経済」の破綻とともに大きく変化した。土地を特別に有利とみなす意見は全体の3分の1にまで低下し、「そうは思わない」という意見と順位が逆転している。こうした傾向は、「バブル経済」下の地価変動が著しかった大都市圏でより顕著である。土地所有の経済的意味により敏感な企業の場合、土地に対する意識変化はより明瞭である。1993年には3分の2の企業が「土地所有の方が借地・賃借よりも有利」だと回答していたものが、2000(平成12)年にはこうした回答は39%へと激減し、かわって「今度は借地・賃借が有利」と考える企業が全体の46%へと伸びている。「バブル経済」の破綻は、国民・企業の双方に大きな教訓をあたえたかのようである。
 たしかにバブル経済の破綻によって、キャピタル・ゲインの持続的拡大に期待するという意味での「土地神話」は崩壊した。しかしながら、国民の持家志向が依然として高いことも事実である。公的部門による賃貸住宅供給が一般して低調であり、かつ家賃補助や家賃控除制度を欠く条件のもとでは、長期にわたって安心して居住できる住宅を求めようとすれば、持家志向に傾くのは当然なのである。土地の資産保有をそれほど有利とみなさなくなった2000年においても、回答者の79%が「土地・建物ともに所有したい」と答えている。また、望ましい住宅形態として一戸建てを想定する意向も依然として強い(2000年78%)。家賃・居住環境の双方で魅力的な賃貸物件がまだまだ少ないこと(とりわけ賃貸住宅の公的供給がなお手薄であること)、高齢化とともに賃貸物件の借入れが困難になることなどが、住宅所有への志向をなお強く維持させる要因である。加えて、「バブル経済」後の地価低落が大都市住民にも住宅取得への可能性を開いたことも、持家志向を高水準で支えている要因であろう。生活の基礎的な条件である良好な住宅を所有したいという要求自体は、しごく当然のものなのである。

4 土地所有・利用への公共的コントロール
土地基本法の理念
 「バブル経済」下の地価騰貴を受けて制定された土地基本法は、第2条で土地に対する公共的規制の根拠として以下の4点をあげている。すなわち、(1)土地が国民のための限られた貴重な資源であること、(2)国民の諸活動にとって不可欠の基盤であること、(3)その利用が他の土地の利用と密接な関係を有すること、(4)社会経済的条件(人口、産業動向、土地利用動向、社会資本整備状況)によって土地の価値が変動すること、である。こうした理解に立って同法は、(1)計画に従った土地の適正利用、(2)投機的取引の抑制、(3)地価上昇利益に応じた適切な負担、を今後の課題としてあげている。いずれも適切な指摘であるが、問題はそれをどのような制度設計のもとで実現していくかにある。土地の商品性を一貫して重視してきた戦後の土地政策を、抜本的に転換しうるかどうかが問われているのである。
 「バブル経済」の破綻直後、土地法制の分野でもさまざまな制度改正が行われてきている。とりわけ重要なのは、規制緩和と地方分権化を掲げた一連の制度改革である。

農地転用規制の緩和
 土地の商品性を規制する唯一ともいえる法律が農地法であった。西欧諸国のような「建築不自由の原則」を欠く日本では、農地法の転用統制がかろうじてその代替機能を果たしてきた。むろん、国土利用全体を秩序づける有効な計画・規制立法を欠く状況のもとでは、農地法の効力にもおのずから限界があった。戦後の農地行政、とりわけ転用行政には一貫性が弱く、各時期の政策的要請によって大きく動かされてきたからである。農地法4、5条の転用許可基準が法律・政令・省令などで明示されず、すべて次官・局長通達に委ねられたことも政策の一貫性を弱める要因となった。農地転用許可基準(1959年、次官通達)の緩和は、こうした通達によって実質的に進行した。都市計画法の実施にともなう「農地転用基準」(1969<昭和44>年、次官通達)は、市街化区域内の農地転用を許可制から届出制に変更した。市街化区域外の農地については、都市計画法に対抗して制定された「農業振興地域の整備に関する法律」が、原則として転用を認めない農用地区域を設定した。しかしこれについても緩和措置が続いた。米過剰下の1970(昭和45)年初頭には、転用対策として水田転用の許可基準が暫定的に緩和された。1971(昭和46)年には「農村地域工業導入促進法」が制定され、工業導入地区内の農地転用については円滑な許可処分を行う方針がとられた(72<同47>年、次官通達)。同法関連の転用許可基準は1989(平成元)年にさらに緩和され、転用を認めない第1種農地についても、農家の就業機会の確保や都市農村交流に資する施設については認めることとされた。1983(昭和58)年「高度技術工業集積地域開発促進法」(「テクノポリス法」)、87(同62)年「総合保養地域整備法」(「リゾート法」)、88(同63)年「地域産業の高度化に寄与する特定事業の集積の促進に関する法律」(「頭脳産業集結法」)、88年「多極分散型国土形成促進法」(「多極分散法」)、92(平成4)年「地方拠点都市地域の整備及び産業業務施設の再配置の促進に関する法律」(「地方拠点法」)など一連の「地域活性化立法」には、それぞれ農地転用許可処分についての配慮規定が設けられた。
 以上のような転用基準の緩和措置もあって、農地転用(この場合は都市的利用への転用)には依然として歯止めがかかっていない。さらに1990年代以降、外からは農産物輸入の増大、内からは高齢化による担い手の弱体化によって、農業生産をめぐる状況はいちだんと厳しさを加えている。こうした状況のもとで農村内部には、農外就業機会の拡大に活路を求めようとする動きが強まっている。地方分権委員会の勧告を踏まえた1998(平成10)年の農地法改正では、4ヘクタール以下の農地転用許可事務を都道府県の自治事務とした。また都市計画法の2000(平成12)年改正は、市街化区域と市街化調整区域の区域区分を大都市部を除いて自由化し、その判断を都道府県に委ねた。転用期待が農村内部に高まっているなかでのこうした権限委譲や規制緩和がどういう帰結をもたらすか、今後注視すべき点である。
規制緩和・「民間活力」導入
 都市を念頭においた土地政策はさらに錯綜しているが、基本線は規制緩和による「民間活力」の導入である。「バブル経済」崩壊後の地価下落をうけて、地価抑制から土地の有効利用へと目標が転換された。大都市地域における密集市街地の再整備、都心居住促進、低・未利用地の利用促進などがその内容である。土地の有効利用のためには市場メカニズムの活用が強調され、借地借家制度の見直し(定期借地権立法)、都市計画・建築規制の緩和などがはかられた。
 都市計画法と建築基準法の1997(平成9)年改正によって、容積率の引上げ、斜線制限緩和、日陰規制の適用除外を認める「高層住宅誘導地区」制度が創設された。この制度によって、もともと過大であった日本の容積率はさらに引き上げられることになった。民間不動産業の活性化にはなっても、日照問題など住民の生活環境の悪化をもたらしかねないと危惧されている。
 土地の有効利用の観点から、土地取引の活性化をうながす一連の措置がとられた。地価高騰期に導入された監視区域指定は解除された。土地税制では、地価税の停止、個人・法人の土地譲渡益課税の軽減、事業用資産の買換え特例制度の拡充などが行われた。いずれも土地資産を改めて優遇する措置である。不良債権の解消をもかねて不動産の流動化をはかるため、その小口化・証券化が構想されている。不動産の小口化と証券化は、土地の商品性をさらに先鋭化するものである。この点では、わが国の土地政策を貫く特質(土地の商品性の保障)がより鮮明となっている。1990年代に進行した一連の規制緩和措置は、「インフラ面や環境面その他で相対的には限界のある都市空間の利用可能容量を…開発投資力のある者にいわば先占的に取得・独占させながら、市場原理を通じるその私有化と商品化を進めていこうとする」ものであり、土地のみならず都市空間そのものまでをも私的財産権の対象とすることを意味している。
自律的土地利用秩序の形成
 以上のように近年の土地政策の展開は、土地の所有・利用への公共的規制の必要をうたいあげた土地基本法に逆行する内容を含んでいる。しかしこうした動きに抗して、地域レベルで自律的な土地利用秩序をつくりあげようとする動きがでてきていることにも注目すべきである。日本の土地利用計画・既成の仕組みはきわめて複雑にできている。関連法は、都市計画法(都市的地域)、農業振興地域の整備に関する法律(農村地域)、森林法(山林)、自然公園法(自然公園)、自然環境保全法(自然環境保全地域)の5つの法律が個別計画・規制を行い、この上位に国土利用計画法による国土利用計画と土地利用基本計画(県レベル)が位置する構造をとっている。5つの個別法の対象区域は一部重複するが、どの個別計画の区域ともならない地域も存在している。地域を単位とした総合的な土地利用計画の策定が不可欠となるわけである。
 1980(昭和55)年以降、地域の土地・環境資源を計画的に管理・利用するための「まちづくり条例」を、多くの市町村が策定するようになった。その先駆けは神戸市の「神戸市地区計画およびまちづくり協定等に関する条例」(1981<昭和56>年)である。同条例は、「住民の参加による住みよいまちづくりを推進する」ことを目的として地区住民が「まちづくり協議会」を組織した場合、市長がこれを認定し、協議会の「まちづくり提案」を市の施策上配慮することを定めている。同様の条例はその後、東京都世田谷区(1982<昭和57>年)、神奈川県真鶴市(93<平成5>年)、神奈川県鎌倉市(96<同8>年)、熊本県小国町(96年)、長野県穂高町(99<同11>年)、富山県滑川市(2000<同12>年)、長崎県小長井町(2000年)と各地に波及していった。当然のことながら、こうした「まちづくり条例」には、地域の土地・環境資源の計画的利用に関しても多くの言及がなされている。土地所有者の8割以上の同意のもとに市・地元住民代表・土地所有者の3者で「まちづくり計画協定」を締結し、協定対象区域(特別計画協定区域)内では計画以外の土地利用を認めず、区域内の土地を売買や開発する場合はすべて届出制とした掛川市「生涯学習まちづくり土地条例」(1991<平成3>年)、一定規模以上の大規模な建築・開発行為について事業者に町および近隣関係者との事前協議を義務づけた真鶴市「まちづくり条例」(前掲)などはよく知られている。佐藤岩夫はこうした「まちづくり条例」の意義を、(1)自治体独自のルールが、規制力の弱い国家法を超えて、地域の土地利用秩序を実効的に制御する役割を果たしてきたこと、(2)国家法レベルで不十分だった住民参加を拡充・強化してきたこと、の2点で評価している。
 日本の都市は、土地の所有・利用をめぐる秩序を自律的に形成していく点で弱さをかかえていた。零細な土地所有が錯綜していること、人口の流動性が高く地域社会の形成がむずかしかったことなどがその理由である。多くの「まちづくり条例」の制定が、まずは行政の強いリーダーシップのもとにスタートしたのもその意味で理解できよう。これに対し農村部では、土地利用の管理主体として集落がなお重要な機能を果たしている。集落をベースに組織された地域営農集団が、作付け栽培協定や機械・施設の共同利用・共同作業のみならず、農地利用権の調整(集団的合意による農地の流動化)にまで関与していることはよく知られている。戦後の農政も、こうした集落の土地管理機能には繰り返し関心を寄せてきた。ふるくは農協法日本政府案における農事実行組合に農地管理事業を行わせるという構想があり、農業基本法の議論の際には市町村レベルで農地の共同的管理を行わせようとする発想もみられた。集落営農に対する近年の注目も、集落がなお保持している土地管理機能へ着目したものである。
 超零細な土地所有者が国民のマジョリティを形成する社会において、土地の所有・利用にかかわる自立的秩序を以下につくりあげていくか。こうしたたいへんむずかしい課題がわれわれに投げかけられている。土地所有・利用が有する公共性に着目した国家法による外部からの規制はもちろん重要である。しかしながら歴史的にみると、日本ではしばしば国(「官」)が公共性を独占してきたのも事実である(「官」と「公」との等置)。こうした日本的「官」の行動様式のもとで、公共政策に対する国民の不信は増大していった。昨今の市場経済化の流れが、こうした傾向をさらに強化した。自助努力の最後のよりどころとして零細土地所有に依存するという構造がより強まっているのである。
 しかしながら「まちづくり条例」制定のように、地域の人びとが共同で問題を解決しつつ公共領域を再建する実践が各地にでてきている。個の尊重を前提とした社会的ネットワークの形成をよりどころとして、個性的な地域づくりに取り組もうとする取り組みがそれである。このような地域をベースにした公共領域の再構築をとおして、商品性の突出した日本型土地所有に対する自律的規制を根づかせていくことが求められている。
いつの時代も愛される「街づくり」。 私たちの夢は、地域にとって財産になる事。

東京へ利益誘導付け替えただけ
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Posted by:情報商材アフィリエイト  at 2008年08月19日(火) 00:38
















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