日々のビジネスや、書籍、セミナー等で啓発を受けた情報から、人として成長し続けるヒントを求め、社会全般の考察を 『個人シンクタンク』 の目線でブレンドした、読み人の心が元気になるエッセイ。

170−5 体にもとづいた倫理、体を基準に考える省エネ  2007年08月31日(金)
2007年8月30日(木)

今週のテーマは、本川達雄教授の著作「ゾウの時間ネズミの時間」「長生き が地球を滅ぼす」の2冊から、「ゾウの時間 ネズミの時間 現代人の時間 日本人の時間」としている。

本川達雄教授は「長生き が地球を滅ぼす」の著書の中で、体温が一定の鳥類や哺乳類を「恒温動物」、体温が一定でないヘビやカエルを変温動物に分類している。 共にエネルギー消費量は、体重の4分の3乗に比例するという。 但しその理由は分っておらず生物学における大きな謎という事だが、生物ににおける根本デザインの一つだと考えられている。

さて、恒温動物である人間は、外の温度が変わっても、体温が一定に保たれているのは、脳に温度センサーを持った体温調節の中枢があり、そこからの指令で、暑い時は汗の気化熱で体を冷やし、寒い時は体内で熱を起し体を温める等、ホルモンや自律神経系などが関与しながら、精巧な調節の仕組みを持っているのである。

生物学から、今回は環境問題に進展してゆき、今回は「体にもとづいた倫理、体を基準に考える省エネ」を取上げたい。

エネルギー問題は、私達が直面している極めて重大な問題である。 このまま大量のエネルギーを使い続ければ、資源の枯渇の問題、地球温暖化をはじめとする環境への影響も深刻である。

氏は、動物のエネルギー消費についての知識を基に、現代人がどれほど大量のエネルギーを使っているか、どこまで省エネをすればしたら良いのかの基準についても、言及している。

今週の引用資料


本川達雄:著 「長生き」が地球を滅ぼす


■170−ゾウの時間 ネズミの時間 現代人の時間 日本人の時間

▼170−5 体にもとづいた倫理、体を基準に考える省エネ

生体内での化学反応を駆動する原動力は、「エネルギー代謝」という化学反応系である。 体内で進む化学反応の速度は、温度によって変わる。 このぺースを生物の時間と考えれば、時間は体温が上がると速く進み、下がるとゆっくりと進む事になる。 この様に、生物の時間の速度は、代謝速度に比例するが、この代謝速度に温度が関係するのである。

私たち恒温動物が大変なエネルギーを使って体温を高く保っているのは、代謝速度を速める事により、時間を速くしていると見ることができる。 高温動物は高速動物なので、のそのそしたものを捕まえて餌にする事ができるようになったのである。

体温が一定だという事は、代謝速度を一定にして時間の速度を常に一定に保つ意味がある。でしょう。 時間の速度が一定ならば、いつも同じタイミングでやれるので、精密な運動や情報処理が可能になる。 精密機器や高速コンピュータなどは、温度が一定に保たれた部屋に置かれているが、私たち恒温動物は、時間の高速性・恒速性を係つために、大変な量のエネルギーを投資していることになるのである。

現代人は、莫大な量のエネルギーを使っているが、そのエネルギーがどれ程のものなのか、 哺乳類のエネルギー消費量の式をもとに考えてみたい。

ヒトサイズ(体重60kg)の動物のエネルギー消費量(標準代謝率)を、式から求めると88.8ワットとなる。 これは実際に成人男子の体が使っている量73.3ワットと、それほど大きくは違っていない。 食べる量でも比較しても、摂食率の式でヒトサイズの動物のものを計算すると190ワット。 標準代謝率のばぼ倍のエネルギーを食べている。 実際のヒトでは121ワットである。

食べて体が使う分は他の動物並みだが、現代人はこの他に、石油や石炭などから得たエネルギーを大量に使っている。 この量は、国民一人当り5450ワットワット(2002年)にもなる。 これに食べる分のエネルギー121ワットを足した5571ワットが、現代日本人のエネルギー消費量である。

この値から社会人としての「標準代謝率」を求めてみよう。 社会人の標準代謝率は、一日に平均して使うエネルギーの半分と見積もれるから、5571/2=2786ワット、という事になる。 これはヒトとしての標準代謝率(73.3ワット)の38倍に当たる。 現代の日本人は、体が使う分の、何と40倍近くのエネルギーを使っているのである。

人類に40倍のエネルギー消費量の増加をもたらしたものは、いったい何だったのだろうか。

それは、内外全ての環境の恒常化による、高速・高精度・高再現性の獲得と言って良い。 エアコンを使えば体の外部環境まで恒温動物。 電灯をつければ夜も昼間と同じような光環境。 夜も動いている工場のライン。 通信網、交通網、どれをとっても現代社会は、何時でもすぐに何でもできる環境をつくり出した。 ハウス栽培で冬でも夏の野菜が食べられ、季節の制約なし。 好きな時に好きなものを好きなだけ食べられるというのは、正に恒環境と呼べる。

この様な「恒環境化」は、手放しで喜べるものではない。 莫大なエネルギーにより可能になっているものであり、地球環境はその為に悪化の一途を辿っている。 自分のごく近くの環境だけを都合よく恒常化する為に、更に大きな地球環境の恒常性を犠牲にしているのである。

  地球温暖化、環境汚染、エネルギーを始めとする資源の枯渇など「恒環境化」は、厄介で放置できない多くの問題を生み出している。 それらの問題の中でもエネルギーは、とりわけ重大な問題である。 このままいけば石油はあと数10年、石炭も300年程度でなくなると見積もられている。 代替エネルギーの開発は、まだ実用化の目途は立っていない。

  今すぐできて効果のあるのは省エネである。 では、省エネをするとして、どの水準に迄にエネルギー消費量を減らしたら良いのであろうか。 越えてはいけない線があるとすれば、それはどこなのか?

そこで自分の体を基準にして、10倍という数字を提案したいのである。 なぜ「10倍」なのか。

  感覚生理学では「ウェーバー・フェヒナーの法則」という、刺激量と感覚との間の有名な法則がある。 手のひらにオモリをのせたとして、1gのオモリと2gのオモリの区別はできるが、100gのオモリと101gのオモリの違いは区別できない。 同じ1gの違いなのだが、重いオモリを持っている時には、より大きな違いでないと感じとれない。 これは音であれ光であれ、ほとんどの感覚で成り立つものである。

  実際の刺激の強さが10倍になっても、感覚の方は一目盛り分強くなったとしか感じないというのが「ウェーバー・フェヒナー」の法則である。

言い換えれば、日常「対数」で世界を認識している訳である。 10の対数が1。 100の対数が2。 つまり10倍増える毎に1目盛り増える。 つまり桁で世界を感じているとも言える。 「桁が違って初めて、これは本当に違うな・・と感じる」こういうやり方が生物の認識の仕方である。

質が同じものでも10個あるのと1万個あるのとでは違ってくる。 現代の10進法が支配する数字の世界に「ウェーバー・フェヒナーの法則」を持ち込めば、「量が10倍以上違えば、質的にも違ったものだと思うべし」という原則になる。

自分の体が使うエネルギーの、何と40倍ものエネルギーを使っている様な大量のエネルギー消費により、現代人は自己のまわりを恒環境化し、その中で生活しているのである。 エネルギー消費量は、一桁の線を大きく越えてしまった事で、既存の動物とは全く異質の動物である「恒環境動物」になってしまったのである。

体はベツタリと変化のない環境に置かれている様な生活が、私達の体と本当に相性の良いものだだろうか。 その様な中で、休は幸せだと感じられるのだろうか?」

昔は、人間が越えてはいけない線を宗教が教えてくれた。 しかし現代では誰もそれを教えてはくれない。 歯止めがなくなって突っ走るだけになっている現状は、大変危うい状況である。

先ずは、自分の体に基準を置いて「それより桁違いに違った事は控える」という考えを歯止めとするならば、万人が納得しやすく、現実的な考え方ではないだろうか。 宗教やイデオロギーの無力になった混迷の時代、それらに頼らずに万人がウンと言える行動指針や倫理を早急につくっていく必要がある。

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170−5 体にもとづいた倫理、体を基準に考える省エネ  2007年08月31日(金)
2007年8月30日(木)

今週のテーマは、本川達雄教授の著作「ゾウの時間ネズミの時間」「長生き が地球を滅ぼす」の2冊から、「ゾウの時間 ネズミの時間 現代人の時間 日本人の時間」としている。

本川達雄教授は「長生き が地球を滅ぼす」の著書の中で、体温が一定の鳥類や哺乳類を「恒温動物」、体温が一定でないヘビやカエルを変温動物に分類している。 共にエネルギー消費量は、体重の4分の3乗に比例するという。 但しその理由は分っておらず生物学における大きな謎という事だが、生物ににおける根本デザインの一つだと考えられている。

さて、恒温動物である人間は、外の温度が変わっても、体温が一定に保たれているのは、脳に温度センサーを持った体温調節の中枢があり、そこからの指令で、暑い時は汗の気化熱で体を冷やし、寒い時は体内で熱を起し体を温める等、ホルモンや自律神経系などが関与しながら、精巧な調節の仕組みを持っているのである。

生物学から、今回は環境問題に進展してゆき、今回は「体にもとづいた倫理、体を基準に考える省エネ」を取上げたい。

エネルギー問題は、私達が直面している極めて重大な問題である。 このまま大量のエネルギーを使い続ければ、資源の枯渇の問題、地球温暖化をはじめとする環境への影響も深刻である。

氏は、動物のエネルギー消費についての知識を基に、現代人がどれほど大量のエネルギーを使っているか、どこまで省エネをすればしたら良いのかの基準についても、言及している。

今週の引用資料


本川達雄:著 「長生き」が地球を滅ぼす


■170−ゾウの時間 ネズミの時間 現代人の時間 日本人の時間

▼170−5 体にもとづいた倫理、体を基準に考える省エネ

生体内での化学反応を駆動する原動力は、「エネルギー代謝」という化学反応系である。 体内で進む化学反応の速度は、温度によって変わる。 このぺースを生物の時間と考えれば、時間は体温が上がると速く進み、下がるとゆっくりと進む事になる。 この様に、生物の時間の速度は、代謝速度に比例するが、この代謝速度に温度が関係するのである。

私たち恒温動物が大変なエネルギーを使って体温を高く保っているのは、代謝速度を速める事により、時間を速くしていると見ることができる。 高温動物は高速動物なので、のそのそしたものを捕まえて餌にする事ができるようになったのである。

体温が一定だという事は、代謝速度を一定にして時間の速度を常に一定に保つ意味がある。でしょう。 時間の速度が一定ならば、いつも同じタイミングでやれるので、精密な運動や情報処理が可能になる。 精密機器や高速コンピュータなどは、温度が一定に保たれた部屋に置かれているが、私たち恒温動物は、時間の高速性・恒速性を係つために、大変な量のエネルギーを投資していることになるのである。

現代人は、莫大な量のエネルギーを使っているが、そのエネルギーがどれ程のものなのか、 哺乳類のエネルギー消費量の式をもとに考えてみたい。

ヒトサイズ(体重60kg)の動物のエネルギー消費量(標準代謝率)を、式から求めると88.8ワットとなる。 これは実際に成人男子の体が使っている量73.3ワットと、それほど大きくは違っていない。 食べる量でも比較しても、摂食率の式でヒトサイズの動物のものを計算すると190ワット。 標準代謝率のばぼ倍のエネルギーを食べている。 実際のヒトでは121ワットである。

食べて体が使う分は他の動物並みだが、現代人はこの他に、石油や石炭などから得たエネルギーを大量に使っている。 この量は、国民一人当り5450ワットワット(2002年)にもなる。 これに食べる分のエネルギー121ワットを足した5571ワットが、現代日本人のエネルギー消費量である。

この値から社会人としての「標準代謝率」を求めてみよう。 社会人の標準代謝率は、一日に平均して使うエネルギーの半分と見積もれるから、5571/2=2786ワット、という事になる。 これはヒトとしての標準代謝率(73.3ワット)の38倍に当たる。 現代の日本人は、体が使う分の、何と40倍近くのエネルギーを使っているのである。

人類に40倍のエネルギー消費量の増加をもたらしたものは、いったい何だったのだろうか。

それは、内外全ての環境の恒常化による、高速・高精度・高再現性の獲得と言って良い。 エアコンを使えば体の外部環境まで恒温動物。 電灯をつければ夜も昼間と同じような光環境。 夜も動いている工場のライン。 通信網、交通網、どれをとっても現代社会は、何時でもすぐに何でもできる環境をつくり出した。 ハウス栽培で冬でも夏の野菜が食べられ、季節の制約なし。 好きな時に好きなものを好きなだけ食べられるというのは、正に恒環境と呼べる。

この様な「恒環境化」は、手放しで喜べるものではない。 莫大なエネルギーにより可能になっているものであり、地球環境はその為に悪化の一途を辿っている。 自分のごく近くの環境だけを都合よく恒常化する為に、更に大きな地球環境の恒常性を犠牲にしているのである。

  地球温暖化、環境汚染、エネルギーを始めとする資源の枯渇など「恒環境化」は、厄介で放置できない多くの問題を生み出している。 それらの問題の中でもエネルギーは、とりわけ重大な問題である。 このままいけば石油はあと数10年、石炭も300年程度でなくなると見積もられている。 代替エネルギーの開発は、まだ実用化の目途は立っていない。

  今すぐできて効果のあるのは省エネである。 では、省エネをするとして、どの水準に迄にエネルギー消費量を減らしたら良いのであろうか。 越えてはいけない線があるとすれば、それはどこなのか?

そこで自分の体を基準にして、10倍という数字を提案したいのである。 なぜ「10倍」なのか。

  感覚生理学では「ウェーバー・フェヒナーの法則」という、刺激量と感覚との間の有名な法則がある。 手のひらにオモリをのせたとして、1gのオモリと2gのオモリの区別はできるが、100gのオモリと101gのオモリの違いは区別できない。 同じ1gの違いなのだが、重いオモリを持っている時には、より大きな違いでないと感じとれない。 これは音であれ光であれ、ほとんどの感覚で成り立つものである。

  実際の刺激の強さが10倍になっても、感覚の方は一目盛り分強くなったとしか感じないというのが「ウェーバー・フェヒナー」の法則である。

言い換えれば、日常「対数」で世界を認識している訳である。 10の対数が1。 100の対数が2。 つまり10倍増える毎に1目盛り増える。 つまり桁で世界を感じているとも言える。 「桁が違って初めて、これは本当に違うな・・と感じる」こういうやり方が生物の認識の仕方である。

質が同じものでも10個あるのと1万個あるのとでは違ってくる。 現代の10進法が支配する数字の世界に「ウェーバー・フェヒナーの法則」を持ち込めば、「量が10倍以上違えば、質的にも違ったものだと思うべし」という原則になる。

自分の体が使うエネルギーの、何と40倍ものエネルギーを使っている様な大量のエネルギー消費により、現代人は自己のまわりを恒環境化し、その中で生活しているのである。 エネルギー消費量は、一桁の線を大きく越えてしまった事で、既存の動物とは全く異質の動物である「恒環境動物」になってしまったのである。

体はベツタリと変化のない環境に置かれている様な生活が、私達の体と本当に相性の良いものだだろうか。 その様な中で、休は幸せだと感じられるのだろうか?」

昔は、人間が越えてはいけない線を宗教が教えてくれた。 しかし現代では誰もそれを教えてはくれない。 歯止めがなくなって突っ走るだけになっている現状は、大変危うい状況である。

先ずは、自分の体に基準を置いて「それより桁違いに違った事は控える」という考えを歯止めとするならば、万人が納得しやすく、現実的な考え方ではないだろうか。 宗教やイデオロギーの無力になった混迷の時代、それらに頼らずに万人がウンと言える行動指針や倫理を早急につくっていく必要がある。

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2007年8月30日(木)

今週のテーマは、本川達雄教授の著作「ゾウの時間ネズミの時間」「長生き が地球を滅ぼす」の2冊から、「ゾウの時間 ネズミの時間 現代人の時間 日本人の時間」としている。

本川達雄教授は「長生き が地球を滅ぼす」の著書の中で、体温が一定の鳥類や哺乳類を「恒温動物」、体温が一定でないヘビやカエルを変温動物に分類している。 共にエネルギー消費量は、体重の4分の3乗に比例するという。 但しその理由は分っておらず生物学における大きな謎という事だが、生物ににおける根本デザインの一つだと考えられている。

さて、恒温動物である人間は、外の温度が変わっても、体温が一定に保たれているのは、脳に温度センサーを持った体温調節の中枢があり、そこからの指令で、暑い時は汗の気化熱で体を冷やし、寒い時は体内で熱を起し体を温める等、ホルモンや自律神経系などが関与しながら、精巧な調節の仕組みを持っているのである。

生物学から、今回は環境問題に進展してゆき、今回は「体にもとづいた倫理、体を基準に考える省エネ」を取上げたい。

エネルギー問題は、私達が直面している極めて重大な問題である。 このまま大量のエネルギーを使い続ければ、資源の枯渇の問題、地球温暖化をはじめとする環境への影響も深刻である。

氏は、動物のエネルギー消費についての知識を基に、現代人がどれほど大量のエネルギーを使っているか、どこまで省エネをすればしたら良いのかの基準についても、言及している。

今週の引用資料


本川達雄:著 「長生き」が地球を滅ぼす


■170−ゾウの時間 ネズミの時間 現代人の時間 日本人の時間

▼170−5 体にもとづいた倫理、体を基準に考える省エネ

生体内での化学反応を駆動する原動力は、「エネルギー代謝」という化学反応系である。 体内で進む化学反応の速度は、温度によって変わる。 このぺースを生物の時間と考えれば、時間は体温が上がると速く進み、下がるとゆっくりと進む事になる。 この様に、生物の時間の速度は、代謝速度に比例するが、この代謝速度に温度が関係するのである。

私たち恒温動物が大変なエネルギーを使って体温を高く保っているのは、代謝速度を速める事により、時間を速くしていると見ることができる。 高温動物は高速動物なので、のそのそしたものを捕まえて餌にする事ができるようになったのである。

体温が一定だという事は、代謝速度を一定にして時間の速度を常に一定に保つ意味がある。でしょう。 時間の速度が一定ならば、いつも同じタイミングでやれるので、精密な運動や情報処理が可能になる。 精密機器や高速コンピュータなどは、温度が一定に保たれた部屋に置かれているが、私たち恒温動物は、時間の高速性・恒速性を係つために、大変な量のエネルギーを投資していることになるのである。

現代人は、莫大な量のエネルギーを使っているが、そのエネルギーがどれ程のものなのか、 哺乳類のエネルギー消費量の式をもとに考えてみたい。

ヒトサイズ(体重60kg)の動物のエネルギー消費量(標準代謝率)を、式から求めると88.8ワットとなる。 これは実際に成人男子の体が使っている量73.3ワットと、それほど大きくは違っていない。 食べる量でも比較しても、摂食率の式でヒトサイズの動物のものを計算すると190ワット。 標準代謝率のばぼ倍のエネルギーを食べている。 実際のヒトでは121ワットである。

食べて体が使う分は他の動物並みだが、現代人はこの他に、石油や石炭などから得たエネルギーを大量に使っている。 この量は、国民一人当り5450ワットワット(2002年)にもなる。 これに食べる分のエネルギー121ワットを足した5571ワットが、現代日本人のエネルギー消費量である。

この値から社会人としての「標準代謝率」を求めてみよう。 社会人の標準代謝率は、一日に平均して使うエネルギーの半分と見積もれるから、5571/2=2786ワット、という事になる。 これはヒトとしての標準代謝率(73.3ワット)の38倍に当たる。 現代の日本人は、体が使う分の、何と40倍近くのエネルギーを使っているのである。

人類に40倍のエネルギー消費量の増加をもたらしたものは、いったい何だったのだろうか。

それは、内外全ての環境の恒常化による、高速・高精度・高再現性の獲得と言って良い。 エアコンを使えば体の外部環境まで恒温動物。 電灯をつければ夜も昼間と同じような光環境。 夜も動いている工場のライン。 通信網、交通網、どれをとっても現代社会は、何時でもすぐに何でもできる環境をつくり出した。 ハウス栽培で冬でも夏の野菜が食べられ、季節の制約なし。 好きな時に好きなものを好きなだけ食べられるというのは、正に恒環境と呼べる。

この様な「恒環境化」は、手放しで喜べるものではない。 莫大なエネルギーにより可能になっているものであり、地球環境はその為に悪化の一途を辿っている。 自分のごく近くの環境だけを都合よく恒常化する為に、更に大きな地球環境の恒常性を犠牲にしているのである。

  地球温暖化、環境汚染、エネルギーを始めとする資源の枯渇など「恒環境化」は、厄介で放置できない多くの問題を生み出している。 それらの問題の中でもエネルギーは、とりわけ重大な問題である。 このままいけば石油はあと数10年、石炭も300年程度でなくなると見積もられている。 代替エネルギーの開発は、まだ実用化の目途は立っていない。

  今すぐできて効果のあるのは省エネである。 では、省エネをするとして、どの水準に迄にエネルギー消費量を減らしたら良いのであろうか。 越えてはいけない線があるとすれば、それはどこなのか?

そこで自分の体を基準にして、10倍という数字を提案したいのである。 なぜ「10倍」なのか。

  感覚生理学では「ウェーバー・フェヒナーの法則」という、刺激量と感覚との間の有名な法則がある。 手のひらにオモリをのせたとして、1gのオモリと2gのオモリの区別はできるが、100gのオモリと101gのオモリの違いは区別できない。 同じ1gの違いなのだが、重いオモリを持っている時には、より大きな違いでないと感じとれない。 これは音であれ光であれ、ほとんどの感覚で成り立つものである。

  実際の刺激の強さが10倍になっても、感覚の方は一目盛り分強くなったとしか感じないというのが「ウェーバー・フェヒナー」の法則である。

言い換えれば、日常「対数」で世界を認識している訳である。 10の対数が1。 100の対数が2。 つまり10倍増える毎に1目盛り増える。 つまり桁で世界を感じているとも言える。 「桁が違って初めて、これは本当に違うな・・と感じる」こういうやり方が生物の認識の仕方である。

質が同じものでも10個あるのと1万個あるのとでは違ってくる。 現代の10進法が支配する数字の世界に「ウェーバー・フェヒナーの法則」を持ち込めば、「量が10倍以上違えば、質的にも違ったものだと思うべし」という原則になる。

自分の体が使うエネルギーの、何と40倍ものエネルギーを使っている様な大量のエネルギー消費により、現代人は自己のまわりを恒環境化し、その中で生活しているのである。 エネルギー消費量は、一桁の線を大きく越えてしまった事で、既存の動物とは全く異質の動物である「恒環境動物」になってしまったのである。

体はベツタリと変化のない環境に置かれている様な生活が、私達の体と本当に相性の良いものだだろうか。 その様な中で、休は幸せだと感じられるのだろうか?」

昔は、人間が越えてはいけない線を宗教が教えてくれた。 しかし現代では誰もそれを教えてはくれない。 歯止めがなくなって突っ走るだけになっている現状は、大変危うい状況である。

先ずは、自分の体に基準を置いて「それより桁違いに違った事は控える」という考えを歯止めとするならば、万人が納得しやすく、現実的な考え方ではないだろうか。 宗教やイデオロギーの無力になった混迷の時代、それらに頼らずに万人がウンと言える行動指針や倫理を早急につくっていく必要がある。

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170−5 体にもとづいた倫理、体を基準に考える省エネ  2007年08月31日(金)
2007年8月30日(木)

今週のテーマは、本川達雄教授の著作「ゾウの時間ネズミの時間」「長生き が地球を滅ぼす」の2冊から、「ゾウの時間 ネズミの時間 現代人の時間 日本人の時間」としている。

本川達雄教授は「長生き が地球を滅ぼす」の著書の中で、体温が一定の鳥類や哺乳類を「恒温動物」、体温が一定でないヘビやカエルを変温動物に分類している。 共にエネルギー消費量は、体重の4分の3乗に比例するという。 但しその理由は分っておらず生物学における大きな謎という事だが、生物ににおける根本デザインの一つだと考えられている。

さて、恒温動物である人間は、外の温度が変わっても、体温が一定に保たれているのは、脳に温度センサーを持った体温調節の中枢があり、そこからの指令で、暑い時は汗の気化熱で体を冷やし、寒い時は体内で熱を起し体を温める等、ホルモンや自律神経系などが関与しながら、精巧な調節の仕組みを持っているのである。

生物学から、今回は環境問題に進展してゆき、今回は「体にもとづいた倫理、体を基準に考える省エネ」を取上げたい。

エネルギー問題は、私達が直面している極めて重大な問題である。 このまま大量のエネルギーを使い続ければ、資源の枯渇の問題、地球温暖化をはじめとする環境への影響も深刻である。

氏は、動物のエネルギー消費についての知識を基に、現代人がどれほど大量のエネルギーを使っているか、どこまで省エネをすればしたら良いのかの基準についても、言及している。

今週の引用資料


本川達雄:著 「長生き」が地球を滅ぼす


■170−ゾウの時間 ネズミの時間 現代人の時間 日本人の時間

▼170−5 体にもとづいた倫理、体を基準に考える省エネ

(図)社会人標準代謝率の変遷.jpg
図:社会人の標準代謝率  ヒトの標準代謝率を基準にして、その何倍かで示してもの。 10倍が1961年、1990年代から40倍近くに跳ね上がっている。

生体内での化学反応を駆動する原動力は、「エネルギー代謝」という化学反応系である。 体内で進む化学反応の速度は、温度によって変わる。 このぺースを生物の時間と考えれば、時間は体温が上がると速く進み、下がるとゆっくりと進む事になる。 この様に、生物の時間の速度は、代謝速度に比例するが、この代謝速度に温度が関係するのである。

私たち恒温動物が大変なエネルギーを使って体温を高く保っているのは、代謝速度を速める事により、時間を速くしていると見ることができる。 高温動物は高速動物なので、のそのそしたものを捕まえて餌にする事ができるようになったのである。

体温が一定だという事は、代謝速度を一定にして時間の速度を常に一定に保つ意味がある。でしょう。 時間の速度が一定ならば、いつも同じタイミングでやれるので、精密な運動や情報処理が可能になる。 精密機器や高速コンピュータなどは、温度が一定に保たれた部屋に置かれているが、私たち恒温動物は、時間の高速性・恒速性を係つために、大変な量のエネルギーを投資していることになるのである。

現代人は、莫大な量のエネルギーを使っているが、そのエネルギーがどれ程のものなのか、 哺乳類のエネルギー消費量の式をもとに考えてみたい。

ヒトサイズ(体重60kg)の動物のエネルギー消費量(標準代謝率)を、式から求めると88.8ワットとなる。 これは実際に成人男子の体が使っている量73.3ワットと、それほど大きくは違っていない。 食べる量でも比較しても、摂食率の式でヒトサイズの動物のものを計算すると190ワット。 標準代謝率のばぼ倍のエネルギーを食べている。 実際のヒトでは121ワットである。

食べて体が使う分は他の動物並みだが、現代人はこの他に、石油や石炭などから得たエネルギーを大量に使っている。 この量は、国民一人当り5450ワットワット(2002年)にもなる。 これに食べる分のエネルギー121ワットを足した5571ワットが、現代日本人のエネルギー消費量である。

この値から社会人としての「標準代謝率」を求めてみよう。 社会人の標準代謝率は、一日に平均して使うエネルギーの半分と見積もれるから、5571/2=2786ワット、という事になる。 これはヒトとしての標準代謝率(73.3ワット)の38倍に当たる。 現代の日本人は、体が使う分の、何と40倍近くのエネルギーを使っているのである。

人類に40倍のエネルギー消費量の増加をもたらしたものは、いったい何だったのだろうか。

それは、内外全ての環境の恒常化による、高速・高精度・高再現性の獲得と言って良い。 エアコンを使えば体の外部環境まで恒温動物。 電灯をつければ夜も昼間と同じような光環境。 夜も動いている工場のライン。 通信網、交通網、どれをとっても現代社会は、何時でもすぐに何でもできる環境をつくり出した。 ハウス栽培で冬でも夏の野菜が食べられ、季節の制約なし。 好きな時に好きなものを好きなだけ食べられるというのは、正に恒環境と呼べる。

この様な「恒環境化」は、手放しで喜べるものではない。 莫大なエネルギーにより可能になっているものであり、地球環境はその為に悪化の一途を辿っている。 自分のごく近くの環境だけを都合よく恒常化する為に、更に大きな地球環境の恒常性を犠牲にしているのである。

  地球温暖化、環境汚染、エネルギーを始めとする資源の枯渇など「恒環境化」は、厄介で放置できない多くの問題を生み出している。 それらの問題の中でもエネルギーは、とりわけ重大な問題である。 このままいけば石油はあと数10年、石炭も300年程度でなくなると見積もられている。 代替エネルギーの開発は、まだ実用化の目途は立っていない。

  今すぐできて効果のあるのは省エネである。 では、省エネをするとして、どの水準に迄にエネルギー消費量を減らしたら良いのであろうか。 越えてはいけない線があるとすれば、それはどこなのか?

そこで自分の体を基準にして、10倍という数字を提案したいのである。 なぜ「10倍」なのか。

  感覚生理学では「ウェーバー・フェヒナーの法則」という、刺激量と感覚との間の有名な法則がある。 手のひらにオモリをのせたとして、1gのオモリと2gのオモリの区別はできるが、100gのオモリと101gのオモリの違いは区別できない。 同じ1gの違いなのだが、重いオモリを持っている時には、より大きな違いでないと感じとれない。 これは音であれ光であれ、ほとんどの感覚で成り立つものである。

  実際の刺激の強さが10倍になっても、感覚の方は一目盛り分強くなったとしか感じないというのが「ウェーバー・フェヒナー」の法則である。

言い換えれば、日常「対数」で世界を認識している訳である。 10の対数が1。 100の対数が2。 つまり10倍増える毎に1目盛り増える。 つまり桁で世界を感じているとも言える。 「桁が違って初めて、これは本当に違うな・・と感じる」こういうやり方が生物の認識の仕方である。

質が同じものでも10個あるのと1万個あるのとでは違ってくる。 現代の10進法が支配する数字の世界に「ウェーバー・フェヒナーの法則」を持ち込めば、「量が10倍以上違えば、質的にも違ったものだと思うべし」という原則になる。

自分の体が使うエネルギーの、何と40倍ものエネルギーを使っている様な大量のエネルギー消費により、現代人は自己のまわりを恒環境化し、その中で生活しているのである。 エネルギー消費量は、一桁の線を大きく越えてしまった事で、既存の動物とは全く異質の動物である「恒環境動物」になってしまったのである。

体はベツタリと変化のない環境に置かれている様な生活が、私達の体と本当に相性の良いものだだろうか。 その様な中で、休は幸せだと感じられるのだろうか?」

昔は、人間が越えてはいけない線を宗教が教えてくれた。 しかし現代では誰もそれを教えてはくれない。 歯止めがなくなって突っ走るだけになっている現状は、大変危うい状況である。

先ずは、自分の体に基準を置いて「それより桁違いに違った事は控える」という考えを歯止めとするならば、万人が納得しやすく、現実的な考え方ではないだろうか。 宗教やイデオロギーの無力になった混迷の時代、それらに頼らずに万人がウンと言える行動指針や倫理を早急につくっていく必要がある。

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170−4 回転する生命とエネルギー  2007年08月28日(火)

2007年8月28日(火)

月の満ち欠け

写真:月の満ち欠け ( http://www.eva.hiho.ne.jp/hakamatsu/hpcopy/tukinomitikake22.jpg より)

日本には、「月と不死」という話がある。 三日月から満月へ、それがだんだんやせ衰えてついには尽き、そして新月から再び新たなサイクルを繰り返す月。 この月の満ち欠けに、死と再生を見、生死を繰り返しながら永遠に続いていく不死のイメージを古代の日本人は読みとっていたのである。

本川達雄教授は、日本古来から、新月毎にあらためて、時間をリセットする、という時は廻るという時間感があったという。 エントロピーの法則、それは放っておけば無秩序になる様に崩壊していく、つまりエントロピーの増える方向に物事は進んでいく、という考え方に対し、日本人は古来よりいわば永遠の思想が有った。

そういえば、「巨人軍は永遠です」と言ったのは、あの長嶋茂雄さんだった。 自民党の中川幹事長も、大敗の責任をとられるが、その言葉は「大敗は再生の始まり」と言った。 それならば、首相も含めて「リセット」しなければならないのではないだろうか。

今週のテーマは、本川達雄教授の著作「ゾウの時間ネズミの時間」「長生き が地球を滅ぼす」の2冊から、「ゾウの時間 ネズミの時間 現代人の時間 日本人の時間」としている。

今回は、「回転する生命とエネルギー」を取上げたい。

今日28日夜、全国で約6年ぶりに月全体が地球の影にすっぽりと入ってしまう皆既月食が見られる。 皆既月食は、午後6時52分、月の出から欠けてる月が現れ、そのまま皆既月食になって同8時22分すぎまで続く。その後約1時間、部分月食が見られる。 月の出早々の月食なので、高度が低い分東から南東の方角が開けた南東の空で、皆既月食特有の赤銅色の月が暗く光るらしい。

  今夜の天候は、全国的に曇りがちという事だが、一度月を眺めながら、前述の永遠の思想を考えるのも、一興ではないだろうか。

今週の引用資料


本川達雄:著 「長生き」が地球を滅ぼす


■170−ゾウの時間 ネズミの時間 現代人の時間 日本人の時間

▼170−4 回転する生命とエネルギー

生物的時間とエネルギーの関係について、もう少し考えてみたい。

時間は、体重の4分の1乗に比例し、エネルギー消費量(比代謝率)は、体重の4分の1乗に反比例している。 結局、時間とエネルギー消費量(比代謝率)とは反比例の関係になる。 時間の逆数は時間の進む速度とみなしてもいいだろうから、「時間の速度はエネルギー消費量に比例する」とも言える事になる。

つまり動物の体の中では、エネルギーを使えば使うほど時間は速く速んでいくのである。 普通、時間は一定の速度で流れていくと考えられているが、動物が関わってくると、時間の速度がエネルギーと関係してくるのである。

さて、「自然に起こる過程では、必ずエントロピーは増加する」という、熱力学の第二法則がある。

複雑で秩序だったモノは、放っておけば無秩序になる様に崩壊していく、つまりエントロピーの増える方向に物事は進んでいくのである。 だからエントロピーにもとづいて考えると、時間は必ず一定方向に流れていき、元には戻らない。 物理的時間が後戻りしない直線的なものである理由の一つは、熱力学の第二法則に根拠がある。

ところが生きものは、エネルギーを注入する事によりエントロピーの増大を抑え元の秩序だった体に戻してゆく。 この時間が元に戻ったとみなされるのが、物理的時間と生物的時間の、大きく違うところである。

生物的時間は元に戻るのは、エネルギーを外から供給するからである。 生物は、エネルギーを注ぎ込む事により時間を戻しているのである。 ここで時間とエネルギーとが関わってくるわけである。

寿命というレベルでこの事を考えて見ると、体は使えば使うほどエントロピーが増大し壊れていく。 私達はエネルギーを注入しながら体を使っているが、長年使用し続けていれば、これ以上直すよりは捨ててしまって新しく、つくり替えた方が経済的という時期がくる。

発行者註:熱力学の第2法則、エントロピーの法則は次の様に表されている。 「物質とエネルギーは一つの方向のみに、すなわち使用可能なものから使用不可能なものへ、あるいは利用可能なものから利用不可能なものへ、あるいは又、秩序化されたものから、無秩序化されたものへと変化する」。  要するに「第二の法則」は、宇宙の全ては体系と価値から始まり絶えず混沌と荒廃に向かう、と説明する事ができる。 エントロピーとは一種の測定法で、それによって利用可能なエネルギーが利用不可能な形態に変換していく度合いを測る事ができるものである。 又、「エントロピーの法則」によると地球もしくは宇宙のどこかで、秩序らしきものが創成される場合、周辺環境には一層大きな無秩序が生じるとされている。 「エントロピーの法則 21世紀文明の基礎」(ジェレミー・リフキン:著 竹内均:訳)より。


そこで、新しく自分とそっくりの子供をつくり、古い体(つまり親)は壊れて死ぬ。 そして新しく個体をつくれば時間がゼロに戻ったという事だから、これはエネルギーを注ぎ込む事により時間が元に戻っている事になるのである。 誕生から死へ、又、誕生から死へとくり返すのが生物で、時間がくるくる回っていくこの一回転が寿命という時間になる。

例えば細胎内の酵素の働きという生理的現象で考えてみたい。 酵素は或る働きをすれば形が変わる。 それをエネルギーを使って元の形に戻す。 これで一つのサイクルが完了する。 ここでもエネルギーを使って時間を元に戻しているわけである。

結局、働けば働くほど体は壊れるので、それを元に戻すにはエネルギーがいる。 働くという事は状態が変化する事で、その変化を「壊れた」と表現すれば、元の状態に直してやるのにエネルギーがいる、という事である。

短い時間に何度も変化を繰り返そうとすれば、それだけ何度もエネルギーを注入して元に戻すわけだから、多くのエネルギーが必要になる。 元の状態に戻す事により生命の回転を続けさせていく為にはエネルギーがいるのである。

結局、変わらずに続くものをデザインしようとすれば「回せばよい」のである。 生命は回るデザインをもつ事により、「永遠」を目指していると言えるのではないだろうか。

生物的時間は回り、円くデザインされているのである。 もちろんエントロピーは増大し続けるから、その意味では時間は直線的に流れていって元には戻らない。 しかしそれにも関わらず、あたかも時間が元に戻ったかの様に振る舞っているのが生物なのである。

但し元に戻るからといって、生命の時間に方向性がないわけではない。 子供は大人になるが、大人が子供に戻る事は起こらない様に生命の時間の回転は一定方向で逆回りはしない。 この回転方向を決めているのがエントロピーである。 生命は一定方向に回りながら元に戻るという事を繰り返しているのである。

古代から、日本の時間は回っていたのである。 この様な「回る時間」をもっていた日本人が、直線的な時間へと変わったのが明治の開国である。 圧倒的な技術力の優位の元に西洋は世界を支配。 日本も明治に国を間いた。 西洋の技術を進んで受け入れて以来、技術の基礎にある物理的時間が、物理学や技術の中のみならず、日常生活の中にも深く入り込む事になったのである。

古来、生物の時間は回ると同様に、日本人の時間も回るものだった。 しかし現在の日本人の時間観は、生物であるヒトと相性の良いものなのだろうか? 又、日本人の心情とも相性が良いのだろうか?

開国以来100余年、技術立国の道を邁進してきたが、得たモノと失ったもモノとを、この辺りでじっくり考えてみる必要があるのではないだろうか。

又、西洋風のものの見方だけで組み立てられてきた技術や科学の体系、更にに社会の仕組みそのものをも、ここで問い直す必要有るのではないだろうか。

Posted at 13:53 | この記事のURL
170−3 一生に使うエネルギーは30億ジュール  2007年08月26日(日)

2007年8月26日(日)

(図)一生のうた.jpg

今週のテーマは、本川達雄教授の著作「ゾウの時間ネズミの時間」「長生き が地球を滅ぼす」の2冊から、「ゾウの時間 ネズミの時間 現代人の時間 日本人の時間」としている。

さて、私達生きる為に食物を摂るが、一週間は食べなくても、人体に蓄えがあり生き延びる事はできる。 問題はエネルギーは蓄えられない事である。 酸素を燃焼させてエネルギーを得ているが、酸素を5分も絶たれると生命に関わるのは誰でも知っている事だが、あらためて言えば、エネルギーこそ生命線である。

  人間の細胞の数は60兆あるが、その細胞ひとつ一つが、酸素を使ってエネルギーを作り出す。 人間もハツカネズミもゾウもその生命の源はエネルギーである。

当然の事ながら、大きなゾウと小さなハツカネズミとは、そのエネルギーの総量は異なっていると考えられるが・・・。

そこで、今回は、「一生に使うエネルギーは30億ジュール」を取上げたい。

今年4月、本川達雄教授のお話を伺ったが、その際に披露された自作の一曲が「―生のうた」である。 図はその譜面だが、歌詞が分りくいので、下記に記したい。

ゾウさんも/ネコもネズミも心臓は/ドッキン ドッキンドッキンと/
15億回打って 止まる/

ウグイスも/カラス トンビに/ツル ダチョウ/
スウハア スウハア スウハアと/息を3億回吸って 終る/

けものなら/みんなかわらず一生に/1キログラムの体重あたり/
30億ジュール消費する/

その名調子は、さすがに歌う生物学者の面目躍如といったところである。

この歌は、覚えていて損はない。 好きな方は、持ち歌にされてはいかが。

今週の引用資料
本川達雄:著 ゾウの時間ネズミの時間

本川達雄:著 「長生き」が地球を滅ぼす

■170−ゾウの時間 ネズミの時間 現代人の時間 日本人の時間

▼170−3 一生に使うエネルギーは30億ジュール

(図)比代謝率と体重の関係
図:体重1kgあたりのエネルギー消費量は、体重の4分の1乗に反比例する(1目盛りは対数目盛り)

物理的時間は直線的なのに対し、生物的時間は繰り返す回る時間である。 小さい動物ではクルクルと時間は速く回るし、サイズの大きい動物では時間はゆっくりと回転するが、回転の周期は4分の1乗に比例して長くなる。

では何故小さいものは速く回るのか? 何故体重の4分の1乗なのか?  正解は分からないが、エネルギー消費量が関係してこうなっているのではないかと想像しているのである。

動物のサイズとエネルギー消費量との間には、特別な関係が知られており、体の大きいもの程たくさんエネルギーを使うのは当然である。 但し体重とエネルギー消費量とは正比例しない。 体重の増え方程にはエネルギー消費量は増えないのである。 だから結局、体の大きいもの程、体重の割りにはエネルギーを使わない事になる。

体重当りのエネルギー消費量(比代謝率、基礎代謝強度とも呼ぶ)は、体重の4分の1乗に反比例して減少する。 時間は体重の4分の1乗に正比例しているので、比代謝率は体重の4分の1乗に反比例する。

どちらも同じ4分の1乗。 正比例と反比例の違いは有るが同じ4分の1乗である。 同じ数字になるのだから、時間とエネルギーとの間に因果関係がありそうだが、単なる偶然の一致かもしれない。

正解は分からないが、いずれにせよ同じ4分の1乗。 一方が正比例で他方が反比例なのだから、この二つの関係式を一緒にすれば、時間と比代謝率とは反比例する事になる。

反比例するもの同士を掛け合わすと、一定値になるので、時間と比代謝率とを掛け合わせると体重の項が消えてしまい、体重によらない値が出てくるのである。 時間としては、何をとってもかまわない。

そこで時間として心周期をとり、これに比代謝率を掛けると、答えは1ジュールになる。 心臓が1回ドキンと打つ間に1kgの組織が使うエネルギーは、1ジュールなのである。

これは、ゾウであってもネズミであっても同じである。  但しゾウは一回のドキンに3秒かかるので、3秒で1ジュール使うが、ネズミはたった0.1秒の間に同じ量のエネルギーを使う。

では、比代謝率に寿命という時間を掛けてみると、一生の間に使うエネルギーは15億ジュールと計算できる。 ゾウの寿命である約70年間に15億ジュール使う。 ネズミの寿命である3年の間に、やはり15億ジュール使うのである。

別のやり方でも同じ答えが得られる。 ゾウもネズミも心臓一回分で1ジュール使い、一生の間に心臓は15億回打つ事からやはり一生に15億ジュール使うという結果になる。

但し、15億ジュールというのは、ちょっと少なく見積もりすぎである。 心臓一回に1ジュール使うというのは、安静にしている時の事で、働いて寝てという一日の活動を平均すると安静時のほぼ2倍のエネルギーを使うので、一生の間に使う、より現実に近いエネルギー消費量は30億ジュールとなる。 一生の間にゾウもネズミも同じ様に、心臓は15億回打ち、エネルギーは30億ジュール使うのである。

こんな計算結果を見ると、動物のイメージとして次の様なものが浮かんでくる。 動物の体の中では、いろいろな装置が回転しながら働いている。 ある特定の装置に注目すると、小さい動物のものほど速く回転しており、エネルギーもたくさん使う。 装置は一定の総回転数(これは動物のサイズに無関係)を回り切れば壊れる様になっているのである。

結局、小さいサイズの動物ほど速く回り、早く規定の回数に達して早く寿命になるわけである。

自動車に例えると、ネズミはガソリンをどんどん燃やし、エンジンをフル回転させ、猛スピードでサーキットをブッ飛ばしF1レーシングカー。 速い事は速いが、壊れるのも早い。 ゾウは、ガソリンを少しずつ使いトロトロと走るファミリーカーというところか。 スピードは出ないけれども、長い年月の間使用可能である。

速度や耐用年数には大きな違いがあるが、車の一生の間にエンジンが回転する総数はどちらも同じ。 一生に走り切る総走行距離も同じである。 ゾウもネズミも一生に同じエネルギーを使うので、生涯を生き切った感慨は案外変わらないものかも知れないのである。

この様に動物がどのくらいエネルギーを使うかは、体重と関係がある。 体重は組織の量を直接反映しているのだから、単純に考えれば、エネルギー消費量は体重に正比例する事になりそうだが、そうはならないのである。

単位体重あたりにすると「エネルギー消費量は体重の4分の1乗に反比例する」という関係になる。 大きいものほど体の割にはエネルギーを使わないのである。

エネルギー消費量と時間とで、一方は体重の4分の1乗に反比例、他方は体重の4分の1乗に正比例している。 だから結局、時間とエネルギー消費量とは反比例の関係になる。 時間の逆数は時間の進む速度とみなしてもいいだろうから、「時間の速度はエネルギー消費量に比例する」とも言える事になる。

この関係は、大きさの違う異種の動物間の比較から導かれたものだが、同じ種の中、例えばヒトの大人と子供との間にも成り立ちそうな気がする。 子供は大人より、体重当たりにすればエネルギーをたくさん使う。 だから子供の時間は速いのだとすれば、子供は同じ時計の時間内に多くの事をするのだから、逆に同じ一日でも、子供にとっては大人よりも長く感じられるだろう。 これはわれわれの実感にあう話である。

何をするにもエネルギーがいる。 エネルギーを大量に使うとは、いろいろの事を沢山するという事である。 これは生きていくペースが速いとも言えるだろう。 エネルギー消費量(代謝速度)で生きるペースを計り、それを生物の時間の速度とするのは、生物にとって意味のある時間の表し方ではないだろうか。

Posted at 18:57 | この記事のURL
170−2 物理的時間は「直線的時間」 生物的時間は円運動をするから「円い時間」  2007年08月23日(木)

2007年8月23日(木)

今、ポンドが高い。 この3月、ロンドンへ所用で出掛けた時からででも、30円ばかり高くなっている。 その節、英国の強さについて、興味深い話を聞いた。 大英帝国時代に支配した地域や国々から、今でも多額の金が流れ込んでくるという。 この事についての専門的な説明は省略するが、金融で活況を呈している背景の一つである事は確かな様である。 

英国も日本も「島国」である。 日本も又がアジアを支配したいという、「身の丈」以上の暴挙に至ったのは、単なる偶然だろか。  両国の違いは勝利国側と敗戦国側に違いだけで、その思想は共通するものが有るのでははないだろうか。

「島国特有の問題、それはエリ−トのサイズは小さくなり、ズバ抜けた巨人となる人物も出にくい。 しかし、小さい方、つまり庶民のスケールは大きくなり、知的レベルは極めて高くなる」と、本川達雄教授が、アメリカで生活してみて、「島の法則」を実感したいう。

それは、大陸に住むアメリカ人は、例えば研究するテーマも大きく、アイスランドにでかけクジラの実験をやっている人もいれば、巨額の金を動かして遺伝子や脳を研究している。 一方でスーパーのレジや車の修理では、あきれる程の不適切で遅い対応が目に付いたと言う。

アメリカや中国に代表される「大陸」は、島国と対極の思想が育つという。 ここにも「時間」のキーワードがある様だ。

今週のテーマは、歌う生物学者と言われている本川達雄教授の著作、「ゾウの時間ネズミの時間」「「長生き」が地球を滅ぼす」の2冊から、「ゾウの時間 ネズミの時間 現代人の時間 日本人の時間」としている。

今回は、「物理的時間は直線的時間 生物的時間は円運動をするから円い時間」を取上げたい。

今週の引用資料
本川達雄:著 ゾウの時間ネズミの時間

本川達雄:著 「長生き」が地球を滅ぼす

■170−ゾウの時間 ネズミの時間 現代人の時間 日本人の時間

▼170−2 物理的時間は「直線的時間」 生物的時間は円運動をするから「円い時間」

長生きが地球を滅ぼす

ゾウにはゾウの時間、イヌにはイヌの時間、ネコにはネコの時間、そして、ネズミにはネズミの時間と、それぞれ体のサイズに応じて違う時間の単位がある事を、生物学は教えてくれる。 生物におけるこの様な時間を、生理的時間と呼ぶ。

  この生きものの時間「生物的時間」に対し、時計で計る時間を「物理的時間」と呼んで区別する。 人間の体は、原子や分子で出来ており、それらを統合する物理法則が、体にも当てはまる。 生きものにも物理的時間は流れているのである。

但し生物は、単なる原子や分子の集合物ではない。 人間の体は、生きものに特有の形にデザインされているが、これは形だけに限った事ではなく、時間の場合も同様である。 体重の4分の1乗に比例するので、生きものは特有の時間のデザインをもっていると考えて良い。 だから物理的時間の上に、更に生物的時間の存在を認めて、はじめて生物を理解でき、生物の一員である人間自身をも、本当に理解できる事になる。

現代人は、物理的時間が唯一の正しい時間だという、大変に強い思い込みをもっている。 現代のこの物質的繁栄を築いたのは、技術でありその基礎になっているのは「ニュートンの物理学」である。  ニュートンは、時間とは全宇宙どこでも同じ、一定の速度で一直線に流れていくものだと考え、これを「絶対時間」と名づけた。

時間がどこでも同じだからこそ、天体の運動もリンゴが木から落ちるのも、同じ時間の微分方程式で書き表せるのである。 このニュートン力学を基に近代技術、そして全ての科学が発達したのである。

時間が同じだからこそ、世界のどこで実験しても同じ結果が得られるのであり、世界中同じ時間だからこそビジネスも成り立つわけである。 実際、経済学の教科書を覗くと、時間の微分方程式がたくさん出てくる事からも、ビジネスの基礎もまた物理学だと言える。

時間とは、存在の枠組みである。 そしてニュートンの絶対時間が、その枠組みとなって現代社会をつくり上げており、現代人の思考の枠組みをも決めているのである。 もちろん相対性理論の世界では、物理学においても時間は変わります。 でもこれは光の速度に近い場合であり、日常では経験できない世界の事である。

日々の暮らしにおいては、時間は一つ、絶対変わらないものだと、みんなが思って生活しており、物理的時間が唯一の時間になっているのである。 この様な見方に対して、別の時間も有るのだということ指摘したい。

生きものには生きものの「時間」が有るならば当然、生きものを理解するには、その「時間」を使わなければいけない。 振り子や水晶発振器という物理的な時間の単位だけで全てを考えてしまう現在のやり方は随分と狭い見方だし、賢いやり方とは思えないのである。

生物にとって意味のある時間の単位とは、そして人間にとって意味のある時間の単位とはどんなものかを、いつも考えながら、意識的に時間というものを見つめていく必要があると考えるのである。

安易に、「時間は一つ」などと思い込んではいけない。 それに時間が一つだけと考えるのは窮屈である。 いろいろな時間が有った方が自由だし、いっぱい有ればへ豊かだし、楽しくなるのではないだろうか。

ここで「生物に関わる時間を、生物の体の中で繰り返し起こる現象の周期を単位として計ったもの」を、「生物的時間」と呼ぶ事にしたい。 心臓がドキンドキンと繰り返し打ったり、肺が呼吸を繰り返したりという、体の中で繰り返し起こっている現象の一回分の時間を単位として、生物の時間を考えるのである。

繰り返しだから、くるくる廻っているその一回転の時間(つまり周期)を、時間の単位として考えるのである。 この様に生物的時間は、一見、繰り返しには見えないものでも、何らかの繰り返しの過程によって基礎づけられていると考え、生物的時間は、基本的には繰り返して廻るものだと考えたい

。 生物的時間は、廻って元に戻ってくるから「廻る時間」、円運動をするから「円い時間」、くるっと環をつくるから「円環的時間」などと呼べる。

物理的時間は、元に戻る事はなく、まっすぐに流れ去る「直線的時間」である。 「円」対「直線」、この二つは違う性質の時間だと考えたいのである。

 生物学と物理学の時間の見方の違いを強調する意味で、この様に円と直線に、はっきりと区別してしたのには別の理由もある。

実は、「時間」を廻るものと見るか直線的なものと見るかは、古来人類がとってきた、時間の代表的な二つの見方なのである。 民族により時代により、人々は時間というものを、それぞれの仕方で捉えてきた。 その捉え方を大別すれば、廻って繰り返すか、直線的に流れていって元に戻らないかの、どちらかだったのである。

廻る時間観をもっていた民族としては、古代のマヤや古代ギリシャなどが有名である。 日本人も廻る時間の中で生きてきた様である。 60歳で還暦というのは、暦=時間が廻って還ってくるのだから、これは正に時間が廻るという考え方である。

仏教では輪廻と言い、これも生まれ変わるのだから、時間が廻って元に戻っているのである。 元号も昭和は64年で終わり平成元年となったが、これは時間がゼロに戻ってスタートし直したと見る事もでき、時間が廻ったとも言える。

還暦(十干十二支)や元号は、中国由来、仏教はインド由来のものですが、日本固有の時間も廻っていた様である。 日本人にとって新年は昔から特別な意味をもっていた。 天皇が去年と同じ年が来る様にと祝詞をよむ事により、新しい年が始まる。

この様な廻る時間に対し、直線的な時間をもつ人々の代表としてキリスト教徒があげられる。 キリスト教においては、神がこの世を創った時から世の終末まで、時間は一直線に流れていく。 時間も神が造り出したものであり、時間は神のもの、絶対的なものである。

人間がどうあがこうと、時間が変わる事などない。 それこそゾウであろうとネズミであろうと、人間であろうと全く関係なく、同一の時間が流れる事になる。

このまっすぐで絶対的な時間が、ニュートンを通して科学の世界に入ってきた。 ニュートンは敬虔なクリスチャンで、神の創造の意図を自然の中に読みとり、その素晴らしさを賛美しようという意図の下に、あの壮大な物理学の体系をつくり上げたのである。 自然の中に神のデザインを読みとろうとしたのである。

その際に、ニュートンは、何ものにも影響されず、同じ速度で一直線に流れる時間、「絶対時間」という概念を使ったのである。 ニュートン力学が成り立つ為には、必ずしもこの様な時間の概念は必要なかったが、ニュートンとしては自然の中に神のデザインを読みとるに際して、時間もやはり、神の時間に似た絶対的なものとして考えたかったのであろう。 物理的時間が直線的なものとなった経緯は、この様な歴史的なものだったのである。

Posted at 12:58 | この記事のURL
170−1 体重の1/4乗に比例する動物の時間  2007年08月21日(火)
2007年8月21日(火)

こんな計算をした人がいる。 息を吸って吐いて、吸って吐いて、という繰り返しの間隔の時間を、心臓の鼓動の間隔時間で割ってやると、息を一回スーッと吸ってハーッと吐く間に、心臓は四回ドキンドキンと打つ事が分かる。

これは哺乳類ならサイズによらず、みんな同じ。 寿命を心臓の鼓動時間で割ってみると、哺乳類ではどの動物でも一生の間に心臓は20億回打つという計算になる。

寿命を呼吸する時間で割れば、一生の間に約5億回、息をスーハーと繰り返すと計算できる。 これも哺乳類なら、体のサイズによらず、ほぼ同じ値となる。

物理的時間で測れば、ゾウはネズミより、ずっと長生きである。 ネズミは数年しか生きないが、ゾウは100年近い寿命をもつ。 しかし、もし心臓の拍動を時計として考えるならば、ゾウもネズミも全く同じ長さだけ生きて死ぬ事になるだろう。

小さい動物では、体内で起こる万(よろず)の現象のテンポが速いのだから、物理的な寿命が短いといったって、一生を生き切った感覚は、存外ゾウもネズミも変わらないのではないか。

時間とは、もっとも基本的な概念である。 自分の時計は何にでもあてはまると何げなく信じ込んで暮らしてきた。 そういう常識をくつがえしてくれるのが、サイズの生物学である。

今週は、歌う生物学者と言われている、本川達雄教授の著作、「ゾウの時間ネズミの時間」「「長生き」が地球を滅ぼす」の2冊から、「ゾウの時間 ネズミの時間 現代人の時間 日本人の時間」を取上げたい。

著者は「生物的時間」の見方を使って、少子化、高齢化、エネルギー問題等々、今日の日本が抱えている問題は、全て時間の捉え方が偏っている事に起因すると主張する。

この2冊は、「生物的時間」を通して、良く生きるとは良い時間を生きる事。 良い時間をつくりだす為に現代人を「時間の奴隷」状態から解放してくれる時間観のコペルニクス的転回の書である。

今週の引用資料

本川達雄:著 ゾウの時間ネズミの時間


■170−ゾウの時間 ネズミの時間 現代人の時間 日本人の時間

▼170−1 体重の1/4乗に比例する動物の時間

ゾウの時間ネズミの時間


体の小さい人の動作はキビキビと機敏で、見ていて気持ちがいい。 大きな人の動作は、ゆったりと悠揚迫らぬものがある。 動物の動きにしてもそうで、ネズミはちょこまかしているし、ゾウはゆっくりと足を運んでいく。

体のサイズと時間との間に何か関係が有るのではないかと、古来、いろいろな人が調べてきた。  例えば、心臓がドキン、ドキンと打つ時間間隔を、ネズミで測り、ネコで測り、イヌで測り、ウマで測り、ゾウで測り、と計測して、各々の動物の体重と時間との関係を求めてみたのである。

サイズを体重で表すのは、体重なら、秤にポイとのせればすぐ測れるが、体長でサイズを表すと、しっぽは計測値に入れるのか、背伸びした長さか、丸まった時の長さか等と、難しい問題がいろいろ出てくるからだ。

いろいろな哺乳類で体重と時間とを測ってみると、「動物の時間は体重の4分の1乗に比例する」という関係が浮かび上がってきたのである。

体重が増えると時間は長くなる。 但し4分の1乗というのは平方根の平方根だから、体重が16倍になると時間が2倍になるという計算で、体重が16倍なら時間も16倍という単純な比例とは違い、体重の増え方に比べれば時間の長くなり方はずっとゆるやかである。 ずっと緩やかではあるが、体重と共に時間は長くなっていく。 つまり大きな動物ほど、何をするにも時間がかかるという事である。

動物が違うと、時間の流れる速度が違ってくるものらしい。 例えば体重が10倍になると、時間は1.8(10の4分の1乗)倍になる。 時間が倍近くかかるのだから、これは動物にとって無視できない問題である。

この4分の1乗則は、時間が関わっているいろいろな現象に非常にひろくあてはまる。 例えば動物の一生に関わるものでは、寿命をはじめとして、おとなのサイズに成長するまでの時間、性的に成熟するのに要する時間、赤ん坊が母親の胎内に留まっている時間など、すべてこの上4乗則にしたがう。

日常の活動の時間も、やはり体重の4分の1乗に比例する。 息をする時間間隔、心臓が打つ間隔、腸が1回じわっと嬬動(ぜんどう)する時間、血が体内を一巡する時間、体外から入った異物を再びび体外へと除去するのに要する時間、タソパク質が合成されてから壊される迄の時間、等々。

生物の時間をこんなふうに捉えられるかもしれない。 心臓の鼓動間隔は繰り返しの時間間隔である。 息を出し入れする時間も腸が打つ時間もそうである。 血液内に入った異物を外に排出する時間にしても、血液の循環時間と関係するだろう。 寿命にしても、個体にとっては一回限りのものではあるが、種としてながめれば、生まれて死に、また生まれて死にという、繰り返しの単位の時間である。

生物においては、この時間の繰り返しの速度が、体重によって変わる。 一回転してもどってくる時間が、大きいものほど長くかかり、小さいものはくるくるとすばやく回転している。

私達は、ふつう、時計を使って時間を測る。 あの、歯車と振子の組み合わさった機械が、コチコチと時を刻み出し、時は万物を平等に、非情に駆り立てていくと、考えている。

ところがそうでもないらしい。 ゾウにはゾウの時間、イヌにはイヌの時間、ネコにはネコの時間、そして、ネズミにはネズミの時間と、それぞれ体のサイズに応じて、違う時間の単位がある事を、生物学は教えてくれる。 生物におけるこの様な時間を、物理的な時間と区別して、生理的時間と呼ぶ。

本川達雄 (もとかわ たつお)
東京工業大学大学院生命理工学研究科教授。 1948年、仙台に生まれる。 東京大学理学部生物学科(動物学)卒(1971)。 東京大学助手(1975〜1978)。 琉球大学講師、助教授(1978〜1991)。 Duke大学visiting associate professor(1986〜1988)。 東京工業大学教授(1991〜)。 海の無脊椎動物の生理学、形態学わ中心に研究し、それを通して、どんな独自の世界をつくりあげているかを理解しようと努めている。 棘皮(きょくひ)動物(ナマコ、ヒトデ、ウニ、ウミユリの仲間)特有の「キャッチ結合組織」の研究や、群体性のホヤをもちいたサイズの生物学、サンゴの生物学などが研究テーマ
Posted at 18:03 | この記事のURL
今週の余録 終戦への思い 後編  2007年08月19日(日)

2007年8月19日(日)

六本木ヒルズ52階の「シテイビュー・スカイ アクアリウム

写真:六本木ヒルズ52階の「シテイビュー・スカイ アクアリウム(同HPより)

《 今週の余録 》 終戦への思い 後編

TVの「40度を超えた」と繰り返すニュース、熱中症で亡くなった人は50人を超すというニュースに、驚いた人も多いのではないだろうか。

昨日は、一転涼しい日となったので、予定を変更して 六本木ヒルズ52階「シテイビュー・スカイ アクアリウム に出かけた。 海抜250メートル、360度の眺望を誇る空間を、数々のアクアリウムで、幻想的な空間を醸し出していた。 もっともお薦めは、東京の夜景を「水槽越し」に見れる夜の時間帯である。

熱帯魚が見事に「アート」になっていた。 それぞれの水槽ごとにテーマがあり、覗き込むとよくぞ集めたと感心する「小さく色鮮やかな熱帯魚」に、しばし喧騒と暑さを忘れさせる「ヒーリング」な気持ちにさせてくれた。

おかげで、本稿も一日ずれたという次第となった。

結局のところ昨日以外は、NHKの総合、BS、HVの「特番」を録画など駆使しながら視聴するひと時、高校野球のカードもつまみながら観戦する、そんな一週間となった。

しかし、この特集番組全部を観終わってはいないが、結局、何やら腑に沈殿したままの状態は続く様である。

先ずは、田畑を売り払い、全てを賭けた満蒙開拓団がソ連の侵攻に遭う。 かろうじて生き残った人々が再び国内に戻り第二の開墾地を探す日々。 時代は既に新幹線が開通していた昭和30年代の中頃でも、その人々は苛酷な日々だったという事実は衝撃であった。

広島、長崎の原爆投下は、一瞬にして数千度(現在の火葬場における焼却温度以上)の熱線を無防備の市民に浴びせた「地獄の沙汰」と言える非道の作戦ではないか。

20年程前の事になるが、得意先の年長であるHさんとある会合で隣合わせとなった際に、「一度だけ」と念を押した上で、苦しげに話された記憶が蘇った。

「Hさんは、当時15、6歳、「呉」に向かう途中、乗り換える為に広島駅のホームにあるベンチに腰掛けていた。 其の日8月9日は朝から太陽がギラギラと暑い日だったという。 向かいのホームに有る水道の蛇口が目に入った。 水が飲みたい一心でリュックを下ろしてベンチに置き、カラに近かった水筒だけをを取り出して、向かいのホームへ向かうべく地下道へと階段を降りた。

ヒンヤリした地下道内の空気に救われた様な気分に思わず「ホッ」とした瞬間、先に見える階段上から一瞬、この世と思えない閃光に呆然と立ちつくし息を呑んだ。 やっと気を取り直して元のホームへ駆け上がると、ホームの上は異様な風景だっという。 崩れおちかけているホームの天井の桟にかろうじて引っ掛かってていたリュックを取り外し、事態をのみこめないままに駅の外に出るしかなかった。

街の様子は一変、その様はとても口にはできない地獄。 彼は彷徨う人々の中で唯一の「閃光」を浴びていない1人だったのである。 リュックから歯磨粉を取り出し、救いの手を差しのべる人々に、ひたすら「歯磨粉」を振りかけるのが勢一杯だっという。 それから先は、とても口にはできない・・と。 運命を分けた「その一瞬」の差を、ずっと背負って生きている苦渋の語りだった」

原爆の被災者救済は、今も立ち遅れている。 何故に国、厚労省は渋るのか。

二日にわたって放映された吉永小百合さんが続けられている「原爆詩の朗読会」。 自称サユリストとして、彼女の飾らない人柄に一層元気づけされる。 子供達にも一緒に出演をよびかけて「原爆詩の朗読会」を次代につなげようとするその志に、敬意を表したい。

アメリカが投下した原爆を「非道の作戦」と言えば、日中戦争の最中に「日本軍」が中国人が逃げ込んだ壕にぶち込んだ「毒ガス弾」の使用も、又「非道の作戦」である。

国際法では「毒ガス」の使用は禁止されている。 ところが日本軍は、中国でこの許されていない「毒ガス」を使用したのである。 尤も風が吹けば、たちまち霧散するが、敵の勢いをそぐ効果は大きい。 そして何より「地下壕」に逃げ込んだ中国人の掃討には、壕の入り口から「毒ガス弾」をぶち込むだけでその目的は達成できる。 この作戦で、どれほどの中国人の命を奪ったのかは定かではない。 今も「不発弾」撤去の作業は日中の協力で続けられている。 その後遺症で今に苦しむ人も多い。

極東裁判で、日本軍の「毒ガス」使用は国際法に反する行為としての訴追を、圧力で取下げさせたのはアメリカである。 その理由は、先々アメリカが「使用できる権利を担保する」事に有った。 ベトナム戦争で「枯葉作戦」が使われたのは記憶に新しい。 戦争に大義はない。 有るのは勝利国の「国益優先の思想」が罷り通るという現実のみ。 敗戦国の「損失」は、残った国民に百害が及ぶ。

先の「地下壕」で思い出すのは、日米併せて27000を超える死傷者、米軍の死傷者は、日本軍を上回ったという「硫黄島の戦い」。

※発行者追記:正確には「硫黄島の戦い」による日本軍の死者は米軍の3倍。 宝島社「栗林忠道 硫黄島の闘い」より、日米両軍のデータを引用すると、
上陸⇒日本軍21000名、米軍60000名。
死者⇒日本軍21000名ほぼ全滅、米軍7000名。
負傷者⇒日本軍負傷者(生存帰還者)は不明、米軍は22000名。

映画「硫黄島からの手紙」で、名将校として描かれているのが栗林中将。 しかしTVのドキュメントで見る限り、事態はそうではない、と思わせる内容だった。 栗林中将は3月29日、その死因は自決と公表されいるが、その真相を知る人はいない。 3月29日以後も硫黄島という名の通り40度以上という壕の中に1000人以上の兵が、苛酷な状況下に息をころして潜んでいた。 壕の中では、瀕死の兵を撃ち、食い扶持を減らさなければならない地獄の様を、涙ながらに証言する人々が映し出されていた。

昭和16年、陸軍大臣東条英機の名で出された「戦陣訓」は、将校が常時携帯していた「軍隊手帳」に記載されている。 特に第8条は「生きて虜囚のはずかしめを受けず、死して罪禍の汚名を残すことなかれ」とあり、全日本兵に死を強制する役割を果した。 つまり「敵の弾による戦死者は英雄だが、捕虜になる事は最大の屈辱」としたのである。

栗林中将の命令は「日本兵1人が米兵10人を殺せばこの戦いに勝てる。己が陣地は後退不可。投降も自決も不可」であった。 栗林中将の最後の打電は、有名な「予ハ常ニ諸氏ノ先頭ニアリ」。

一方、残された兵士の多くは現役の職業軍人ではない。 召集された30〜40代の下級兵達が、無秩序な烏合の衆と化したのである。 せめて栗林中将が亡くなった後ならば、この命令に反してでも早期に投降していれば、生きて帰された人数は10倍以上になっただろうに。

米軍がいくら投降をよびかけても誰一人投降しない。 業を煮やした米軍は「壕と言う壕の全て」に海水を入れ、その水面をガソリンで覆ったのである。 そこへ火炎放射器で火がつけられれば正に一毛打尽である。 「壕」よりあぶりだされ、朦朧状態で捕虜となった兵は、結果としてはこのTVに登場した人々の様に生きて祖国に帰れた人々である。

命を落とした人々との生死の分かれ目は、生命力の強さ故か・・という以外に言葉がない。  約1万の遺骨が未だに壕の中に眠ったままであるという。

「生きて虜囚のはずかしめを受けず、死して罪禍の汚名を残す事なかれ」を、声高に叫んだのは、オーストラリア・シドニーの西約320キロに位置する「カウラ捕虜収容所」に、捕虜として送り込まれた日本軍の「下士官」だった。 この事実を伝えた番組(再放送)「NHKの「カウラの大脱走」の内容は、生存者の「証言」を中心に編成されていた。

既に「カウラ捕虜収容所」には、ニューギニアの戦線で捕虜となった日本兵の約1000人(殆ど陸軍で、海軍は2割程度)が収容されていた。 ジュネーブ協定に基づいて民主的に運営されており、日本兵の捕虜達は平和な捕虜生活を送っていたという。 マージャンも野球も許されていて、勝ち負けの決済、物との代価に貨幣の役割を果たしたのが支給されていた煙草だった言う証言者の笑顔に、ホッとする思いである。

その様な平穏な「カウラ捕虜収容所」へ、新たな捕虜として送り込まれてきたのが、前述の日本軍の若き「下士官」だった。 彼等は軍人手帳を示し口々に「戦陣訓」を1000名の捕虜である下級兵に向かって叫んだ。 敵の銃で死ねば「生きて虜囚のはずかしめを受けず、死して罪禍の汚名を残すことなかれ」の、戦陣訓に背く事無く名誉の戦死となる、と「大脱走」を呼びかけたのである。 生きて捕虜になった場合は「非国民」である・・・と。

国際法の元で運営されていた「カウラ捕虜収容所」は、30名単位に班分けされ、選ばれた班長が参加する30数名の「班長会議」で、物事が決められると言う実に「民主的」に運営されていたという。 新入りの「下士官」による「大脱走」を呼びかけに対して、殆どの班では○×による二者択一の投票が行われたが、「決行」の空気が全体を支配した。 当然ながら班長会議で結論は、○である。

昭和19年8月5日午前1時55分、「カウラ捕虜収容所」の日本人捕虜が一斉に脱走を決行した。 日本兵の死者231人、負傷者108人、成功者無し。 オーストラリア側の死者4人。 この捕虜脱走事件は長く隠蔽され、事件から40年後の1984年に明らかとなった。

下級兵の大半は、捕虜になった後ろめたさと、捕虜同志の面子もあり、偽名を名乗って入所しているのである。 正確な氏名のの把握は難しい。

さて、この悲惨な結果を招いた太平洋戦争は、果たして「自衛」の戦争だったのだろうか。 記憶にある「大東亜共栄圏」構想は、植民地政策を進めた西欧の大国から1周遅れとも2週遅れとも言われながら「アジアの帝国」を目指す、今から振り返れば「自衛」の枠を超え、身の丈を超えた野心=大日本帝国樹立という妄想ではないか。

しかし、今の日本の太平は多くの屍の犠牲の上に成り立っている事も事実である。 もし日中戦争、もし太平洋戦争がなかったならば、今以上の日本の太平が有ったという事を、誰も証明できない。

中国の名語録の一つに「人間(じんかん)万事塞翁が馬」がある。 出典は「准南子」という古典だが、次の様な話が付け加えられている。 「幸が不幸に転じ、不幸が幸に転じる。 この変化の妙は測り難い」と。

我々が出来るのは、次代の不幸につながらない「国の有り方の選択」ではないだろうか。

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今週の余録 終戦への思い その1  2007年08月16日(木)

2007年8月16日(木)

玉音放送を聞く人々
写真:1945年8月15日 玉音放送を聞く人々((http://www.cc.matsuyamau.ac.jp/~tamura/gyokuonnhousou.htm より)

《 今週の余録 》 終戦への思い その1

新暦8月15日(前後)は、祭日ではないが、国民的休日と言って良い。 学校では、大多数は夏休み期間として定着し、そして祖先の霊を祭る宗教行事としての「お盆」としての側面があり、全国的に大多数の人が墓参りをするのが恒例である。 その為に高速道路や各交通機関がラッシュとなる弊害をものともせず、民族大移動となる。

なお、この8月15日は、キリスト教(カトリック)の重要な祭典「聖母の被昇天」であり、カトリック教徒が多い南ヨーロッパや中南米では祭典が盛大に開かれる。 シンガポールでは主に中国系住民により「Hungry Ghosts' Festival」(飢えた幽霊の祭り)と呼ばれる、盆に相当する行事が行われ、京劇に似た演劇が無料公開される。

日本では、16日の晩に寺社の境内や広場での「盆踊り」が催されるが、これは地獄での受苦を免れた亡者達が、喜んで踊る状態を模したと言う。 バッジをつけた議員諸氏は、この時ばかりは「落選」という地獄へ落ちない為に、ゆかた姿で踊りに参加するのもご苦労な話である。  有名な「京の大文字送り火」に代表される地方それぞれの「お盆行事」は、日本の文化の定番であり、平和である限り国民共通の「癒し」の時期でもある。

8月15日、未来永劫忘れてならないのが「終戦記念日」。 さてどうして8月15日と定まったのであろうか。

調べて見るとポツダム宣言の受諾通告と終戦の詔書の公布は8月14日に行われ、軍への正式な停戦命令が行われたのは翌16日であった。 又、休戦が発効し日本陸海軍が連合国軍に対して正式に降伏を行ったのは、ポツダム宣言受諾の休戦文書に調印した9月2日。 戦争終結は、日本国とのサンフランシスコ講和条約が発効した1952年4月28日をもって国際法上の正式の日付とされている。

1963年5月14日の閣議決定により、同年から8月15日に政府主催で全国戦没者追悼式が行われた。 1965年からは東京都千代田区の日本武道館で開催されている。

1982年4月13日、8月15日を「戦歿者を追悼し平和を祈念する日」とする事が閣議決定。 現在ではこの閣議決定に基づいて毎年8月15日に全国戦没者追悼式が行われている。

8月15日は玉音放送の放送日にすぎなかったが、引揚者の給付金等の支給開始日がこの日と定められた事でこの日を「終戦日」と定められた様である。

8月12日(日)午後7時、この玉音放送当時のドキュメントが、BSiで放送された。 タイトルは「8・15玉音放送を死守せよ 異なる目的の為に命をかけた2人」。 生々しく当時の経緯を語られていたのはNHKの放送責任者と、もう1人が近衛師団の中隊長。 現存されているお2人の名前はメモしていない)

この日、陸軍省の畑中健二少佐がクーデターを決行し近衛師団長森越中将を殺害してニセ命令を出し近衛師団を出動させ、15日未明、皇居を占拠するとともに、鈴木貫太郎首相官邸、私邸及び木戸幸一内大臣邸、平沼騏一郎枢密院議長邸などを襲撃する。 その足でNHKの放送会館に乱入。

BSiの放送によると、放送の責任者は殆ど徴兵されていた事から一人しかいなかった。 畑中少佐はその人に銃をおしつけまま、両者にらみ合いとなった。 その人の冷静な目と一歩も引かない態度に、気負わされた畑中少佐は遂に思い留まり静かにNHK会館を退去した後、宮城前で、自決したという。

その直前、NHK会館の2階へ通じる階段踊り場には、ニセの命令で動員された近衛兵100名が待機していた。 近衛師団の隊長は、待機中も士気高揚した状態だったという。 もう一方で「もしやクーデターではないか? それならば我々は天皇に背く逆賊だ」という疑問と、血気にはやる100名の兵の前にして、苦悶の時間だったという。

もし、このクーデターを決起した将校が銃の引き金を引いていれば、どういう事態になったのであろうか。 後刻鎮圧されてはいるものの玉音放送日の変更は避けられなかったのではないだろうか。 戦後の日程にズレは生じれば、お盆の8月15日、戦没者の供養と重なる事で意味がある現在の「国民的な夏の行事」が、別の意味合いを持つ事になる。

歴史の「もし?」は、タブーである。 しかし8月15日の「終戦日」とお盆とが重なる事で「不戦」の誓いが一層重みを持っているのではないだろうか。

参考資料
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肝付博昭(有限会社 新規事業開発 代表)
日々のビジネス活動や、話題の書籍、セミナーで啓発を受けた情報の中から、人間として成長し続けるヒントを求め社会全般の考察をオンリーワンの目線でブレンドした読み人の心が元気になるエッセイ
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