| ●見聞録232−3(完) 作品に込められた司馬遼太郎さんの大いなる魂は、永く輝き続けるだろう 2009年12月31日(木)
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●2009年12月31日(木) ■見聞録232 論理や直感で穿(うが)った穴に想像というダイナマイトを仕掛ける司馬遼太郎●今日の視点 今年も司馬遼太郎氏を取り上げての大晦日となった。 一昨年の12月25日と27日、2回に亘って「司馬遼太郎の「21世紀に生きる君たちへのメッセージ」(184−1便)を取り上げている。 当時、大阪出張の合間をぬって、東大阪の「司馬遼太郎記念館」を訪ねた時に、記念館の基調として、地下大書架の壁面に掲げてある「21世紀に生きる君たちへ」を、目にして感慨にふけったところから、この一文を取り上げた。 それから早くも2年、それにしても時間が流れるのは早い。
時間は、人々にとって必ずしも平等ではない様だ。 残りの時間が少ないほどに時が早く流れ、時間など考える必要もないほど未来に希望がある人には、ゆったりと時間が流れる。
1年前、入学祝いに孫に、可愛い洋服を作って着せたところ、孫曰く「本当に上手ね。 夢が有っていいね。 将来は洋服屋さんになれるよ」の言葉に思わず絶句した家内。 子供にとっては、全ての人に等しく未来は希望であふれている、という事なのだろう。
さて、明治の中期、世界の列強に追いつけ、追い越せという時代を秋山兄弟と子規を主人公にした「坂の上の雲」は、歴史上最も希望のあふれていた時代である。 NHKスペッシャルドラマは、作者の司馬遼太郎氏の一番、勢いのあった時期の作品だけに、さすがにエネルギーに満ちあふれている。 続きは来年の12月と先は長い。
原作者の司馬遼太郎氏は、日清戦争から、日露戦争、そしの先の昭和に入ってからの太平洋戦争と続く構想が有った様だ、と和田 宏氏は述べている。 『司馬遼太郎という人』の著者である和田宏氏は、文春の編集者として最も長く、司馬遼太郎氏の身近にいた人である。
プライベートな時間「福田定一」には立ち入らず、もっぱら司馬遼太郎という歴史小説家と、それこそ火花をちらしながら、一緒に戦ってきた正に戦友、それもいうなら厳しい上官に仕えた戦記というべきこの著作を読むと、司馬遼太郎氏の飾らない人柄が手に取る様にイメージできる。 メッチャ頭の切れた人の様だ。 相手を選ばず絶え間無しに喋る事、話の花を咲かせる事で、作品の構想が関せされていく。
「作品に込められた司馬遼太郎さんの大いなる魂は、永く輝き続けるだろう」で、本年の最終の締めとしたい。
今年1年おつきあい頂き有難うございました。 時代はあまりよくありませんが、皆様には良いお年をお迎え下さい。
●今日の引用資料
 和田 宏:著 『司馬遼太郎という人』
●見聞録232−3(完) 作品に込められた司馬遼太郎さんの大いなる魂は、永く輝き続けるだろう
◇「編集者が防波堤になってくれなきや、作家はどうするんだ」◇
叱られた。 しかも大目玉だった。 普段みどり夫人任かせで、めったに電話に出ない司馬さんが、夫人から受話器をむしりとって(想像だが)怒った。 『坂の上の雲』は、『竜馬がゆく』と同じ様に、連載中にキリがいいところで一巻ずつ刊行する方式を取っていた。 これは各巻の厚さにばらつきが出るし、最後の巻が厚くなるのか薄くなるのかなりゆき主かせで、とても危険である。
私(和田宏)が1970(昭和45)年に出服部に配属されたときは第3巻が出たばかりであったが、この巻から売れ行きに火がついた。 ここから日露戦争の場面に入ったのである。 普通は、巻を追う毎に初版部数が落ちていくものだが、この長篇小説に限って違った。 第3巻から買う人がいたのであった。 読者から第4巻がいつ出るのかという問い合わせが殺到し、出服部はもとより営業部も悲鳴をあげた。 「黒溝台」の章が終ったところで第四巻とすると決めていたが、さて、この章が年(1971年)が明けてもなかなか終らない。 部長が、いつ終るのか司馬さんに聞けという。
バカみたいに何度も聞いているうちに、司馬さんが爆発した。 「主人公の一人である秋山好古が表立って活躍するのは、ここでお終いなのだ。 しかるに君はなぜ人を急(せ)かすのか。 他人が何と言おうと、存分にやってくださいというのが、君の役目ではないのか」
一言もない。 全くその通りである。 当時30歳、いい歳をして、部長の言葉をそのまま伝えている子供の使いみたいで、いま思い出しても顔から火が出る。
その2週間ほど後に司馬さん宅へ『世に棲む目日』の校訂の打ち合わせがあって出かけた。 考えてみれば、この小説は週刊誌の連載を終ったばかりであり、この頃は『花神』も新聞連載していたから、司馬さんの仕事量は大変なものであった。 おそろしいほど緊張して伺った。 司馬さんはむっつりしていて怖かった。 が、すぐにいつもの司馬さんに戻った。
ところで、『坂の上の雲』への反響がどれだけ凄かったかについて、数字で触れておかないと事情が分かり難いかと思う。 それには第5巻や第6巻は最初から20万部近く刷ったといえば充分だろう。 技術の進歩で、現在は一度にそんなに刷らなくても、紙の手配から本が流通に乗るまでの時間が短くなってきているので事足りるが、当時はそんな具合だった。
こういう歴史小説を一度にそれだけ作るのは、さすがに緊張する。 どこかでしくじって20万部を反故(ほご)にすれば、社の業績を左右する欠損になるだろう。 一個の誤植でも20万個の誤植になる。 書籍の編集者の辛さは、もしそんな事にでもなれば、責任はたった一人に帰せられる事である。 この心細さは経験者でないと分かってもらえないと思う。
◇「作品に込められた司馬遼太郎さんの大いなる魂は、永く輝き続けるだろう」◇
1996(平成8)年の正月2日、名古屋のホテルでの夜。 食事の後はいつものとおりだった。 席を変えてお酒を飲みながら司馬さんの独演会に大いに笑わされた。 深夜に近くなり、司馬さんは眠る前の鍼治療という事で散会になった。 その時になって夫人から「治療の間、寂しいので部屋に来て次の間でお酒でも飲んでて、と司馬さんがいっている」と、山形(中央公論の担当編集者)さんと二人誘われた。 こんなことははじめてだった。 なにせ「福田定一氏の場所」へいくのだから。
治療を終えた司馬さんは、「やあ、すまんすまん」などといいながら、血色がすっかりよくなって寝室から現われた。 ガウン姿の司馬さんを見るのは初めてだったが、ふしぎなものでゆったりしたものを着ているとかえって「少し痩せられたのではないか」と思った。
3日の日は大勢の編集者が集まり、楽しい夜を過ごしたが、私はそこまでで、翌朝ホテルを出た。この日から「街道をゆく」の取材が始まり、「濃尾参州記」の取材なので、名古屋の近辺であり、同行した人も多く、またまた楽しい司馬さんの歴史話が聞けたらしい。
しかしこの中のほとんどの人にとってこれが永遠の別れになった。 亡くなるまであと40日足らず。 私などこの月の20日すぎに東京で会うことになっていたので、あのときが最後になるなどとは考えもしなかった。 何度も繰り返すが、坐骨神経痛が死の病いであるとはだれも思わないであろう。 上京は貧血による体調不良で取りやめになり、あらためて2月の半ばにということになった。
・・・その目は日曜日だった。 家人と近くへ昼飯を食べに出かけ、帰ってきたところに「文語春秋」の編集長のNさんから電話があった。 「驚かずに聞けよ。 司馬さんがな、倒れた。 もうだめだという連絡があった」
Nさんは留守中になんども電話したそうで、「留守電」くらいつけとけよな、といった。 私のところにも大阪から電話があったのかもしれない。 Nさんとその目すぐ大阪へ飛んでいった。
病院では、腰部の動脈瘤が決壊して、大量の輸血をしたのだが、もうどうにもならなかった、という説明を受けた。 坐骨神経痛などではなかった。 動脈瘤が神経を圧迫していたのだった。
その体を押して、最後までこの国の行く末を憂えて「義務を果たし続け」て、前向きに斃(たお)れたれた。 これは50年目の戦死ではないか。
集中治療室の司馬さんはただ息をしているだけだった。 輸血のためか血色はよかった。 手を握ると熱いくらいだが、なにも応えてくれない。 そのまま一度も意識が戻ることなく、次の日の夜、帰らぬ人となった。
翌13日、自宅に戻された遺体と対面した。 今にも「やあやあ、来とったんか」と起き上がって来そうな感じがした。「参ったよ、こんなになってしもうた」といっているような気もした。
密葬ということだったのに、聞きつけて大勢の人たちが集まってきた。 庭で家の外からのお別れだったが、長い行列ができた。 「私みたいなもんでも入れてもらえるやろか」と聞いてきた中年女性がいた。 「見とくなはれ、この子が赤ん坊の時、先生に抱いてもろたときの写真だす」と写真を示す、中学生を連れた親父がいた。
若者も老人も男も女も泣いていた。 庭中がすぐ花でいっぱいになった。 14日の葬儀も簡単に終り、みんな散っていった。 火葬場は司馬邸から歩いていける距離にある。 私と山形さんの二人は親族の人達とは離れて、とぼとぼと町並みを歩いていった。 司馬さんの散歩によく付き合った道である。 冬の午後の陽は淡く、風が冷たかった。
途中に司馬さんの1979年までの旧宅がある。 ここにもずいぶん通ったなあ、と山形さんと話しながら通り過ぎた。 司馬さんの骨は、触ればすぐ崩れそうなほどすっかり灰になっていた。 こんなに小さくなるものかと思った。 私と山形さんも親族にまじって、最後にどこの部分だかわからない小さな骨を拾わせてもらった。 そして残りの骨はさっさと片づけられてしまった。 それですべて終りであった。 肉体などまことに他愛もない。 だが、作品に込められた大いなる魂は永く輝き続けるだろう。
●内容情報(「BOOK」データベースより) 「自分を面積も質量もない、点のような存在にしないと物が見えてこない」。生前、司馬遼太郎氏は繰り返しこう語ったという。大変なユーモリストだったこと、権力風を吹かす人が大嫌いだったことなど、担当編集者として30年、その間耳にした“日常のひと言”をたよりに、人間・司馬遼太郎に迫る。
●目次(「BOOK」データベースより) 1 司馬さんのかたち/2 創作の現場近くで/3 書くことと話すこと/4 作品の周辺/5 司馬さんの小景/6 出版について/7 病気、そして死
●和田宏(ワダヒロシ) 1940年、福井県敦賀市生まれ。1965年、早稲田大学文学部仏文科卒業。同年、文芸春秋に入社。「司馬遼太郎全集」など、同社出版部で長く司馬氏の担当編集者を務めた。2001年、退社。2002年、日本海文学大賞受賞
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