●一部加筆修正しています。 09:01:11:40
●2009年1月12日(月)
●見聞録219 いま、なぜ「老荘思想」なのか
●今日の視点
「中国が、1978年経済改革の道へ踏み出した時、西側の経済学者達は、『資本主義だけが中国を救う事ができる』と言ったものである。 30年後、それらの学者達は、『中国だけが資本主義を救う事ができる』と唱えている」
これは前回、紹介した田勢 康弘氏が
「週刊ニュース新書:テレビ東京」
12月6日の放送キャスターをつとめる 紹介された「あとがき」のコーナーで、The Economist(2008年11月15日号「世界最速の成長経済は下落を回避できるか」)から引用し紹介された一文である。
さて、昨年秋いきなり襲ってきた地球規模の大直下地震の如きアメリカ発の経済危機からの回復に、早くて3年という見方は楽観的過ぎるのではないだろうか。 その危機の源は、怪しげな「金融工学」なるマネーがマネーを生み出す「バーチャル経済」を世界に仕掛けたアメリカ資本主義の暴走という事につきるだろう。 それは実体経済の代表とも言える自動車産業を直撃しアメリカビッグ3の破綻寸前に追い込んでいる。
そして必要な時に必要な部材を手当する「カンバン方式」を駆使したトヨタ、そして薄型TVや半導体で優位の立場に有ったエレクトロニクス産業に代表される有力企業に、数量減と円高が経営を逼迫させている。 1ドル=80円台が定着するとほとんどの輸出企業が先の見えない経営環境に突入する。 グローバル展開した企業がひとたまりもないという惨状である。
そのグローバル企業が、揃って甘受した「大市場」とは、13億の人口を有しGDP毎年二桁成長の「中国」だった。
この巨大市場で利益を得ていた米欧日の受けたダメージが、冒頭の言葉「中国だけが資本主義を救う事ができる」を、逆裏付けした事になる。 皮肉にも「チェンジ」を旗印にサッソウと登場する「オバマ大統領」に、最も熱い視線を向けているのは、中国と言っても良いのではないだろうか。 もはや自国の繁栄を、米欧日に委ねていかねばならない中国でもある。 いずれ衣は変えてでも共産党支配は、否応なく「チェンジ」の波が押し寄せるだろう。
元々「世界の中心は中国である」という唯我独尊とも言える中華思想。 中国映画において過去最高額の投資が行われたと言われている三国志『レッドクリフ』を観て今更ながら感じるのは、映画制作でもハリウッドを超えたのでは?という事である。 ついでながら理屈ぬきに愉しめるエンターテーメントに徹した21世紀最高のスペクタル映画『レッドクリフ』。 4月公開のパート2が待ち遠しい。
この映画の題材となっている「三国志」に代表される様に、その歴史を辿ってもこれに勝る「大国」は、過去も現在もおそらく未来も無いであろう。 唯一衰えた「清国」の末期に、アヘン戦争でイギリスに敗北。 そして明治維新後の勢いがあった日本に破れた日清戦争。 その後の年月を「たったの100年」と見るか「100年間も」と見るか。
1945年に連合国側の一員として蘇った中国は1978年、経済改革の道へ踏み出して以来、巨大な人口をバックに世界の覇権をも視野に「大国」となったのである。 日本は、地政学的な意味でいつの時代も中国には最大の関心を向けざるを得ない定めなのである。
ここにきてアメリカ発の資本主義・市場経済主義は、結果として「あらゆるところに格差」をもたらした。 日本人だけでなく、中国の人々も西欧の人々も、その反省に起てば、「老子・荘子」が言う「老荘思想」に、今一度学ぶ事が多いのでないだろうか。
見聞録219便は 「いま、なぜ「老荘思想」なのか」としているが、最終回は林田愼之助:著 『「タオ=道」の思想』から「全ての作為 虚飾を捨てよ 即ちタオ=道の精神に戻れ」を取り上げて締めとしたい。
●見聞録219−3 全ての作為 虚飾を捨てよ 即ちタオ=道の精神に戻れ−老荘思想(FIN)
●今日の引用資料
林田愼之助:著 『「タオ=道」の思想』
◇「タオ=道」とは何か?◇
この地球上において絶える事のない戦争、そしてカネを追い求めるあまり、心を荒廃させる人々・・・。 人間によるこうした愚かな行為に、古(いにしえ)の昔より警鐘を鴉らし続けてきたのが「老子」である。
「老子」は、紀元前3世紀、中国の戦国時代に生きた思想家で上下2巻、約5000言からなる書物『老子』を著した。 「老子」が生きた戦国時代、中国では早くも文明が発達していたが、その文明は人間の社会に富める者と貧しい者を生み出した。 そして、諸侯が覇を競って戦い、全土は戦場と化したのである。
文明は、本来人間を幸福にするためにある筈なのに、かえって不幸をもたらしているのはどうしてなのか──。 こうした疑念を抱いた「老子」は、いま一度、人間本来の姿に立ち帰り、そこから人間のあり方を考え直そうとしたのである。
そして思索の結果、人間はその営みの中から作為を捨て去り、虚飾を削ぎ落とすことで大自然と一体化でき、計り知れない自然の不思議な力がそこに活かされる、と結諭づけるに至ったのである。
「老子」のこの思想の根幹をなすものが「タオ=道」で、連綿と続く宇宙という大自然の秩序を支える原理ともいうべきものである。
大自然の営みは、昼夜・四季の運行の中で、万物を生み出し、生育させ、やがて死滅に向かわせる。 そして、その後また新しい生命が生み出され、死滅へと向かう・・・。 こうして休むことなく、永遠にその営みは続いている。 この大自然の営みは、まさに「道」としか言い様がなく「自(おのず)らなる営み」のなせるわざである、と「老子」はそう考えたのである。
とはいえ「老子」は、この「道」の働きを造物主である神の営みというふうには見ていない。 何者かがそうさせているのではなく、「ひとりでにそうなっている]と捉えたのである。
そうした「道」の営みを、「無為自然(むいしぜん)」という言葉で「老子」は表している。 これは「為す無くして、自(おのず)ら然(しか)り」と読むが、ここでいう自然は、「nature]の意味の自然ではない。
「無為」とは、道の営みには全く作為がないという意味である。 すなわち「無為」と「自然」とは、「道」の営みを視点を変えて表現したものである。
「道」の営みが、無為、無作為であり、自ら然る状態の中で、万物を着実に生み、育んでいくのだから、その成果は完璧に近い。 老子はそのことを踏まえて、「無為にして、而(しか)も為さざるは莫(な)し」と言った。 つまり「無為自然でありながら、全て成し遂げてしまう」のが「道の要諦だ」というわけである。
この道の精神に立ち戻ることによって、自然と人間、人間と人間のギクシャクした関係を修復しようとしたのが老子であった。
◇万物は全て相対的な存在である◇
書物『老子』を見ると、「道」というものについて、次のような文章から説き起こし始めている。
「道の道とすべきは、常の道にあらず。 名の名とすべきは、常の名にあらず」──これが道だといえる道は、本物の道ではない。 これが名だといえる名は、本物の名ではない。
例えば、儒教の立場で、孔子が説く「仁義の道」というものにしても、それは相対的な価値観で揺れ動く道にすぎない。 それは本物の道ではないし、絶対不変の道とは言えない。
名についても同じことである。 名というものはあくまで、あるものと他のものを区別するためのもので、便宜的なものである。 例えば、天と地という名にしても、相対的な位置関係でつけられたものにすぎない。 我々の住んでいる地上から太陽や月が見えるので、これを天と呼ぶが、逆に太陽や月から地球を見れば位置は逆転し、この地が天に見えるはずである。
このように「万物は全て相対的な存在にすぎない」という考え方が「老子」の思想の中核をなしている。
「無の以(も)って用を為す」──これは、有が有として役に立つのは、その裏に無の働きがあるからである、という意味で、例えば、焼き物の容器は、その中が空っぽだからこそ、物を入れることができる。
このように形のあるものは全て、形のないものがそれを支える働きをしているからこそ役に立つ。 ものの見方によっては絶対的だと思われるものが逆転し、いつも無価値だと思われているものに価値があることは大いにあり得るのである。
では「老子」のいう絶対不変の本物の「道」とは何か?
それは、相対的な価値観に左右されるような道ではなく、天地を生み出した初めてのものである。 「元の元」になるものであり、従って本来、名など持たないのが真の「道」なのである。
そして、この道の働きの中には「往復運動」がある。 中国人の生活観には、今が幸福だからといって調子に乗ってはいけない、いつかは不幸に見舞われることがあるのだから、と戒め現在が不幸であっても、いつの日か必ず順風満帆の時が戻ってくる、という考え方がある。
あるいは春夏秋冬の四季の移り変わり、昼夜の交替を見ても、この地上の生物は、自然の中に生命を授かり、そして風化してゆくことを繰り返している。 その往復運動を行わしめている働きそのものが「道」なのである。 この霊妙な道の働きの実相を見極めることができるのは、常に無欲な人間である。 いつも欲望にとらわれて人間は、道の働きのほんの現象面に触れることしかできないのである。
●林田慎之助(ハヤシダ シンノスケ)
1932年福岡県生まれ。 九州大学大学院文学研究科博士課程修了。 九州大学文学部教授を経て、現在は神戸女子大学文学部教授。 専門は中国文学