突然インスピレーションのように

2012年05月14日(月)
 突然インスピレーションのように一つの定理が思いだされた。胸にこみ上げてくる喜びをじっと押し殺して、参謀の提出した方略を採用する指揮官のように、わざと落ちつき払いながら鉛筆を動かし始めた。今度こそはすべてが予期どおりに都合よく行きそうにみえた。一度分解した項式が結合をしなおして、だんだん単純化されていくところからみると、ついには単一の結論的項式に落ちつきそうにみえた。渡瀬は今まで口の中に入れていたゴムを所きらわず吐き捨てて、噛りつくように罫紙の上にのしかかった。
 けれどもやはりむだだった。八分というところに来て、ようやく二つに纏め上げた項式をいよいよ一つに結び合せようとする段になって、どうしてもそれが不可能であるのを発見してしまった。
「畜生」
 思わず渡瀬は鉛筆を紙の上にたたきつけてこう叫んだ。
「渡瀬さん、私はもう行きます」
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Posted by みう at 17:35  / この記事の詳細  / この記事を編集

彼は好んでとぼけた様子をしながら

2012年05月14日(月)
彼は好んでとぼけた様子をしながら、
「それはできないことはありませんがね……ま、もう少し待ってください。じきです。これさえ解ければ完全なものになるんですから……」
 といって、ふたたび罫紙に眼を落した。新井田氏はそれに対して別に何んともいわなかった。けれどもしぶとい奴だと言わんばかりな眼が、渡瀬の額の生えぎわのあたりを意地悪くさまよっているのは、明かに渡瀬の神経にこたえてきた。まだだいじょうぶと渡瀬は思った。そこで彼はふたたび新井田氏をそっちのけにして、行きづまった計算の緒口をたぐりだしにかかった。
 今度こそはと意気組を新たにしてかかった。数字がだんだんとその眼の前で生きかえり始めた。彼は今度は同じ項式の分解を三角法によってなし遂げようと企てた。彼の頭の中にはこの難問題の解決に役立つかとおもわれるいくつかの定理が隠見した。鉛筆を下す前にその中からこれこそはと思われる一つを選み取らねばならぬ。彼は鉛筆の尻についているゴムを噛みちぎって、弾力の強い小さな塊を歯の間に弄びながらいろいろと思い耽った。
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Posted by みう at 17:34  / この記事の詳細  / この記事を編集

「変だなあ」

2012年05月14日(月)
「変だなあ」
 そう渡瀬の唇はおのずから言葉となった。そして鉛筆は堅くその手に握られたまま停止してしまった。
「そんなむずかしい計算をしなければこれは分らないのですか」
 と新井田氏がそのきっかけをさらって口を入れた。すぐ癇癪を立てる、こらえ性のない調子が今度の言葉には明かに潜んでいた。渡瀬はそれを聞くと、これはいけないぞと思った。そしてはじめて新井田氏の存在を正当に意識の中に入れてその人を見やりながらつくろうような笑顔を見せた。口をゆるめると、今まで固く噛み合っていた歯なみが歯齦からゆるみでるい軽い痛みを感じた。
 不断はいかにも平民的で、高等学府に学んでいる秀才を十分に尊敬しているといいたげな態度を示している新井田氏でありながら、こういう場合になると、にわかに顔つきまで変ってしまって、少し加減してみせるとすぐつけあがってきやがると言わんばかりの、傲慢な、見くだしたような眼の色を、遠慮もなく渡瀬の顔に投げてよこすのだった。しかしながら渡瀬はそれしきのことで自分の仕事を中止する気にはなれなかった。
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Posted by みう at 17:33  / この記事の詳細  / この記事を編集

「奇体だなあ」

2012年05月14日(月)
「奇体だなあ」
 彼は思わず鉛筆を心もち紙の表面からもち上げて、自分に対して必死の抵抗を試みようとする項式をまじまじと眺めた。
「そこがどうなんです」
 新井田氏が依然としてそこにいたのを渡瀬は知った。新井田氏の存在をおぼろげながら意識すると彼がその顧問(新井田氏自身は渡瀬を助手と呼んでいたが)となって、学資の大部分を得ているのを考え合わさないわけではなかったが、それが他人事のようにしか感じられなかった。渡瀬は「え」といってちょっと新井田氏を見上げただけで、またもや手をかえてその難問題にぶつかろうとした。大きな数がみごとに割り切れた時のような、あのすがすがしい気持を味うまでは、渡瀬の胸のこだわりはどうしても晴れようとはしなかった。彼は鞭つように罫紙を裏返した。それは見るまに数字で埋まってしまった。また一枚を裏返した。それもたちまち埋まっていこうとする。しかし計算はますます迷宮に入るばかりで、いつそこから抜けでられるのか予想はとてもつかなくなるばかりだった。
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Posted by みう at 17:32  / この記事の詳細  / この記事を編集

渡瀬は説明を続けているうちに

2012年05月14日(月)
 渡瀬は説明を続けているうちに、だんだん一つの不安心な箇所に近づいていった。その個所を突破しさえすれば問題の解決は著しくはかどるのだ。そこにもう一度ぶつかって、それを征服してしまおうとの熱意がいよいよ燃えてきた。彼の眼の前で数字が堂々たる陣容を整えて展開した。それが罫紙の上をあるいは右に、あるいは左に、前後上下に働きはじめた。渡瀬は仕事たこのできた太い指の間にイーグル鉛筆を握って、数字と数字との間を縦横に駈けめぐった。しばらくの間鉛筆は紙の余白に細かい数字を連ねていたが、そして渡瀬は神文でも現われてくるのを見る人のように夢中で鉛筆のあとを追っていたが、やがて鉛筆ははたととまってしまった。その瞬間に渡瀬は眼がさめたようになって、今まで書き続けていたところを読み辿ってみた。計算に間違はなかったけれども、項式はもう発展できないように横道に来ていた。

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Posted by みう at 17:32  / この記事の詳細  / この記事を編集

庭の草などをつかんでいる時で

2012年05月09日(水)
庭の草などをつかんでいる時でも、ふと気が付くと葉子はしゃがんだまま一茎の名もない草をたった一本摘みとって、目に涙をいっぱいためながら爪の先で寸々に切りさいなんでいる自分を見いだしたりした。
 同じ衝動は葉子を駆って倉地の抱擁に自分自身を思う存分しいたげようとした。そこには倉地の愛を少しでも多く自分につなぎたい欲求も手伝ってはいたけれども、倉地の手で極度の苦痛を感ずる事に不満足きわまる満足を見いだそうとしていたのだ。精神も肉体もはなはだしく病に虫ばまれた葉子は抱擁によっての有頂天な歓楽を味わう資格を失ってからかなり久しかった。そこにはただ地獄のような呵責があるばかりだった。すべてが終わってから葉子に残るものは、嘔吐を催すような肉体の苦痛と、しいて自分を忘我に誘おうともがきながら、それが裏切られて無益に終わった、その後に襲って来る唾棄すべき倦怠ばかりだった。
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Posted by みう at 19:04  / この記事の詳細  / この記事を編集

こんなもつれ合ったいさかいが

2012年05月09日(水)
 こんなもつれ合ったいさかいがともすると葉子の家で繰り返されるようになった。ひとりになって気がしずまると葉子は心の底から自分の狂暴な振る舞いを悔いた。そして気を取り直したつもりでどこまでも愛子をいたわってやろうとした。愛子に愛情を見せるためには義理にも貞世につらく当たるのが当然だと思った。そして愛子の見ている前で、愛するものが愛する者を憎んだ時ばかりに見せる残虐な呵責を貞世に与えたりした。葉子はそれが理不尽きわまる事だとは知っていながら、そう偏頗に傾いて来る自分の心持ちをどうする事もできなかった。それのみならず葉子には自分の鬱憤をもらすための対象がぜひ一つ必要になって来た。人でなければ動物、動物でなければ草木、草木でなければ自分自身に何かなしに傷害を与えていなければ気が休まなくなった。
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Posted by みう at 19:03  / この記事の詳細  / この記事を編集

船長の日本語の理解力を

2012年05月06日(日)
船長の日本語の理解力をそれほどに思い設けていなかったらしい博士は、この不意打ちに今度は自分がまごついて、ちょっと返事をしかねていると、田川夫人がさそくにそれを引き取って、
「Good hit for you,Mr. Captain !」
 と癖のない発音でいってのけた。これを聞いた一座は、ことに外国人たちは、椅子から乗り出すようにして夫人を見た。夫人はその時人の目にはつきかねるほどの敏捷さで葉子のほうをうかがった。葉子は眉一つ動かさずに、下を向いたままでスープをすすっていた。
 慎み深く大さじを持ちあつかいながら、葉子は自分に何かきわ立った印象を与えようとして、いろいろなまねを競い合っているような人々のさまを心の中で笑っていた。
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Posted by みう at 18:21  / この記事の詳細  / この記事を編集

共働きの家庭は珍しくないのに

2012年05月05日(土)
私の友達が結婚して1年ほど経とうとしています。
子供もまだいないので、また働きに出たいと旦那さんに相談したら断られてしまったそうです。
その旦那さんは、自分の奥さんには家庭に入っていてもらいたいのだそうです。
最近では共働きも当たり前になってきているものの、男性は外で仕事をして女性は家事や育児に従事するというのが日本には昔からある風習ですよね。
長引く不況によって会社の給料が減ってしまったりしているので共働きの家庭は珍しいことではありません。
友達にはまだ子供がいないので、旦那さんのお給料だけでも生活はなんとかしていけるようなのですが、将来、子供が生まれたらそれだけでは暮らしていけないと言ってました。
だから今のうちから貯蓄を増やしたいのだそうです。
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Posted by みう at 16:45  / この記事の詳細  / この記事を編集

僕は昨今になつて頻に人間は長生しなければ

2012年05月04日(金)
僕は昨今になつて頻に人間は長生しなければ駄目だと思つてゐる。人間の魂が本當に成熟するのはどうしても老年になつてからの事だ。大きい、靜かな、波のうねりの深い、見晴らしの廣い、重味のある生活は若い者にはとても味はれさうにもない。僕はロダンや、イプセンや、トルストイや、ゲーテの老年を思ふと恐ろしく、懷かしく、望みに充ちたやうな氣になる。死ぬ前にはゲーテのやうな顏になつて死にたいと云ふのが、おほ氣なくも僕の大野心だ。それだのに、今からライフの頂點に達したり、降り坂になつたりして堪るものか。日本の先輩が、これまで、早く衰へて了つたのは、彼等の心掛けが惡かつたせいだ。彼等に仕事をさせた力が、一生を貫く内面の要求ではなくて、一時的な青年の情熱に過ぎなかつたからだ。
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Posted by みう at 20:43  / この記事の詳細  / この記事を編集
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