日に新たなり。日に新たなる者は、日に進むなり。・・・・ちょっぴりディープな備忘録。

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Zaurus MI-E25DC  2007年03月20日(火)

電子手帳を使い始めたのは1992年にシャープのPA-X1という機種だった。その後、写真右下部分のPA-X3で一旦落ち着いた。そのころはバイブルサイズの紙の手帳が流行っていて、私も愛用していたのだが、2点だけ困っていた事があった。それは住所録がボロボロになると書き換える必要がある事。そしてもう一つは、スケジュールが変更になると手帳が真っ黒になってしまう事だった。取引先に人事移動の多い会社があって、それこそ斜線だらけでどれが最新の住所が分からなくなっていた。スケジュールと住所録が搭載されたシャープの電子手帳は上記の問題を解決してくれた。何人もの人に出会うけど、都度入力していけば、出会った方の名刺を持ち歩く必要も、分類保管する必要も無くなった。それ以降シャープとの長いつきあいが始まる。電子手帳PA-X3に満足していた私に、PDA(Personal Digital Assistants)個人用の携帯情報端末『ZAURUS』を紹介してくれたのは友人だった。レポート機能が結構使える事。データの分類が出来たりエクセル表が閲覧出来る事も素晴らしかったけど、一番感激したのはカメラがついていて住所録にその人の顔写真が残せる事だった。良く、顔は覚えてるけど誰だっけなんて事があるけど、時々住所録を見ながら私の頭の中をリフレッシュしていた。最新型の『ZAURUS』に乗り換えられないのは、データ移行すると住所録から顔写真部分が消えてしまう事にもある。今使ってるパワーザウルスの最終形『MI-E25DC』は、ipodのように音楽プレーヤーとしても使えるし、Excel表も見られる。また、MOREソフトというユーザーが作ったソフトが走る。中でもKDMさん作の激速スケジュールビューワ「ZaSch」は優れもので、写真のように一ヶ月のスケジュールが俯瞰出来る。これがなくなってしまうとたちまち明日の行動すら分からなくなってしまう。いずれ携帯電話に置き換えられるのかもしれないが、携帯の画面サイズではちょっと辛い。パソコンではちょっと大きいし、PDAが必要とされる分野ってまだまだあると思う。
『ポケットに詰め込んで そのまま連れ去りたい』なんて歌があったけど、私の胸ポケットに入ってる大切な秘書なのである。色気はないけど。
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Sea Martin  2007年03月19日(月)
東京の生活を終えて、長浜に戻ってきて琵琶湖を眺めた時、ヨットに乗りたいって思った。わずかばかりの蓄えを握りしめて彦根の船屋に行った。まさかエンジン付きのヨット、クルーザーが500万円以上もするとは思っても見なかった。がっくりと肩を落として項垂れていたら店員の人が「ちょっと乗ってみるかい」って誘ってくれたのが、ディンギーだった。多景島という5km沖合にある島まで乗せて貰った。その時の感動は一生忘れない。セールに風をうけた瞬間、滑るように水面を切って走る船体。聞こえるのは、チャッチャッと波を切って走る音と、セールを流れる風の音だけだった。戻ってきてあまりの感動にその場ですぐにYAMAHAのシーマーチンを購入した。総額30万円程度だったが、自動車で牽引する台車まで作ってくれた。当時カローラのバンに乗っていたが、鉄のバンパーに穴を空けてフックを取り付けた。それからは毎週末には、琵琶湖に出ていた。2枚帆があるスループリグというタイプなのだが、前のジブセールをはずしてマストを180度反転して差し込むとキャットリグに変身出来た。夏場の比較的風が安定している時は、一人で2枚帆を操る事も出来た。もう毎日乗りたくてしょうがなくって、いい風が吹いてると居ても立ってもいられなかったのを思い出す。丁度そのころ家内と知り合うのだが、一ヶ月もすると二人ともプロのようにロープのセットや組み立てができるようになっていて、いい風が吹いてるなあってた思ったら、一時間後には琵琶湖の上でヨットを滑らせていた。風にむかってクローズホールドでハイクアウトしながら滑走する楽しさは快感だ。まあ、ほぼ毎週ディンギーに乗ってたので二人ともほんとに真っ黒だった。時がたち、娘たちが大きくなったので操縦させてみた時の様子がこれ。このヨットはブームが斜めに入っているので、追い風滑走時のジャイブの際、怪我をする事もなく、扱いやすい入門艇だ。ものの一時間も教えたら2人で勝手に操縦していた。
セールナンバー『1501』は今も健在で、夏になると琵琶湖を滑走している。
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画像検査装置  2007年03月18日(日)

昨年設置した8色両面カラー印刷機の仕事が増えてきたので、品質保証の観点からFUTEC様の画像検査装置を導入しました。毎分250mで印刷される両面カラー印刷物を全数撮影して、駄目な物は除外していく装置です。
この装置を設置する事により、高速で印刷中の印刷物の突発的な汚れや微少な欠けなどを発見して、早期対処や継続的な品質向上が可能になりました。なにより オペレーターが安心してスピードを上げられるようになった事の効果が大きかったように思います。
最初に基準画像を撮影して記憶しておき、その後次々に送られてくる印刷画像(大体1秒間にA3の大きさ両面で20枚程度)を隅々まで機械的に見比べると言うものです。
汚れや欠け、印刷色の変化があるとその部分にマーキングされます。こう言ってしまうと原理自体は簡単なのですが、感慨深いものがありました。
と言うのも、昔勤めていた会社で、印刷機械で使用する版をCCDカメラで撮影し、インキ壺のプリセットをする装置を開発していたのです。版をカメラで撮影後、絵柄面積を演算する仕組みでした。
静止画像の解析と高速動画の解析というポイントは異なりますが、画像解析という話しには変わりはありません。
あの時代、画像を均一に撮影する事の困難さは並大抵の事ではありませんでした。
もう26年も前の話しになるので、CCDカメラの画素数や撮影スピード、照明装置のムラに苦労したのを思い出します。撮影した画像を演算するのが4MHzで動作するZ80でしたから、アセンブラでプログラムを書いても処理に時間がかかりました。
今回導入した機械を眺めていると、カメラで取り込んだ信号は、高速で動作する専用ハードで記憶された後、表示用と解析用に振り分けられます。解析も専用のハードで演算され、演算結果のみをPCに送っていました。PCでは演算結果をさらに分かり易く表示したりする為に使用されています。CCDカメラも知らない間にかなりの高速度撮影が可能になっていました。
品質保証部が中心となって2台導入したのですが、私は純粋に機械屋として楽しめました。

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TRS-80  2007年03月17日(土)
最初に手に入れたPCはタンディラジオシャックというメーカーが製造していたTRS-80だった。当時のCPUはザイログ社のZ80、モトローラ社の6502が一世を風靡していて、6502はApple IIやPET2001に搭載されてた。
Z80は8bit-CPU、インテル8080の上位互換としてリリースされた。超ベストセラーで今でも組み込みマシンで見る事が出来る。
このTRS-80というマシン、スイッチを入れるとすぐにレベル2BASICが走り、カタカナ文字が使用できた。クロック周波数は1.7MHzでメモリ空間は購入時わずか4kbyteという物だった。キーボードに見えるのが本体で、拡張インターフェースというのをつけるとプリンターやRS232Cの接続、フロッピードライブが増設出来た。この中にもメモリ増設が出来、全部で48kbyteまで可能だった。当時NECに勤めていた先輩から白のセラミックパッケージに金メッキの足といういかにも高価そうなメモリを貰った。16kbit/個だったから8個を本体に入れて16kbyteという空間になり、マシン語でプログラムを書いていた私たちには十分な容量だった。
この時代どのメーカーのマイコンを買っても一生懸命打ち込んだプログラムの保管は、カセットテープレコーダーに録音していた。ピーギャーという音を録音するのだが、ホントにわずかな調整で保存に失敗した。FDDの出現で録音、つまりプログラムの保存に10分近くかかった物が10秒程度で済むようになり、それだけでも救世主のような装置だった。FDD一枚の容量は片面単密といって80Kbyteだったが、その後両面倍密倍トラックになり640Kbyteまでになった。
FDDを備えるとTRSDOSとDISK-BASICが使えるようになった。当時DOS(DiskOperatingSystem)というのはその名の通り、ディスクアクセスを管理する為の仕組みだった。NewDOS80というちょっぴり洗練されたOSも走った。
最初の頃は、アスキーやIOという雑誌に掲載されていたスタートレックやインベーダーゲームを打ち込んでは遊んでいた。BASICは高級言語なとど呼ばれプログラムも読みやすかったが、インタプリタと言って一行毎に解析して実行するもんだから速度を要求する場合はアセンプラで組むしか方法が無かった。だから、当時こんなマシンで遊んでいた連中は大抵マシン語が出来た。
Apple IIをベストセラーにした影の役者VISICALが移植され、このマシンでも動いていた。表計算ソフトの走りでその後Multiplanを経てEXCELへとブームは移る。
このマシンも回路図が公開されていたので、クロックアップや、8255I/Oポートを利用した外部装置の制作など、ハンダごてを握る楽しみがあった。無線と異なったのは、制作した後、ファームウェア部分のプログラムを書くという事だった。そう言えばUV-EPROMライターなんても作っていたな。このマシンのお陰で、ハード弄りとソフト弄りが混沌と融合していった。そして、コンピュータのディープな世界へはまりだして行ったのだった。
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VAX11/730  2007年03月15日(木)
大学を卒業して4年間、大学時代の先輩が経営されてるパッケージ会社に就職させて頂いた。入社当初はサックマシンやローランドの印刷機械などのオペレーターをしていたが、パソコンの話しから電算室を設立しようと盛り上がり、パッケージCADに挑戦する事になった。別の記事でUPするが、当時パソコンはマイコンなんて言われていてインテル系がZ80(ザイログ社)、モトローラ系が6502で一世を風靡していた。電算室を立ち上げる頃は名機PC9801がデビューした時で、大型汎用機とは別のカテゴリーで演算用にミニコンという独特の世界が存在した。その当時大型汎用機と言えばIBMだったが、ミニコンの世界で有名だったのが、今はHPに吸収されたDEC(Digital Equipment Corporation)という会社だ。PDP11という名機に続いて、VAX11/780というMIPS原器なんて呼ばれたベストセラーマシンを販売していた。その下位機種にVAX11/750,VAX11/730というのがあり、電算室にはVAX11/730を買って貰った。 確か当時でも軽く1000万円は超えていたと思う。今から見ると計算スピード0.2MIPSで、1MByte実メモリのマシンはオモチャのようなものだったが, これでもちゃんとUNIXが動いた。今や10万のPCで3000MIPS、1Gbyteのメモリ程度は当たり前だからこの25年間と言うのは劇的な変化だったのがわかる。それはさておき、32bit仮想メモリ(Virtual Memory System)略してVMSというOSが走り、私はFOTRANでパッケージCADシステムを組んでいた。VMSの開発者は「闘うプログラマー」として有名なデビッド・カトラーで、後にWindowsNTを開発した。方や当時PCの世界ではDOS1.0だった訳だからヤッパOS(Operating system)と言うのはこうでなくっちゃなあという使いやすいOSだった。端末はこれもまた当時の者なら誰でも知ってるVT100だった。
本当の端末で、文字を送信して、返ってきた信号をモニタに表示するだけという実直な奴だったが、8080を内蔵していて文字にグラフィック効果を与える事が出来た。コマンドプロンプトの状態から、$ EDIT ABC.FOR でプログラムを書いて、$ FORTRAN ABC でコンパイルして$ LINK ABCで、オブジェクトリンクをしてから$ RUN ABC で実行した記憶がある。当然バッチ処理はしていた。
ところで、パッケージのCADの中身は、今となっては当たり前だが当時は誰もやってなかった箱のサンプルカッターを作ろうという物だった。 いわゆる箱の展開図をCADで作ったらそれをXYプロッターで切り抜いて箱のサンプルを作ろうというシステムだった。何もかもが大変だった。XYプロッターはあるのだが、板ボール紙を切るために、ペン先の代わりにカッター刃をセットしたらコーナー部分で回転してくれないと刃が欠けてしまう。いわゆるシータ(回転)制御付のプロッターが当時無かった。それは先輩が、どんな伝手からか日本で最初に電車のパンダグラフを作った東洋電機製造という会社に作って貰って来た。I/Oの部分はその会社から提供されるモジュールに対してパラメーターを与えると動作したのだが、なんせ誰もやってなかったので、上手く切り抜ける迄には相当時間が掛かった。パッケージの面付けである入れ子のアルゴリズムを作ったり、ラスターデータをベクターデータに変換する仕組みを考えたり、良くFOTRANであんなアルゴリズムを表現していたなと思う。完成して計算通りの箱が出来た時、今まで単に計算機と思ってたコンピュータが、始めて物作りを支援する事で実際に稼ぐんだなって思った。

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RJX-601  2007年03月14日(水)

小学生の頃、従兄弟が買った電子ブロックに触発され、中学生の時にアマチュア無線の免許を取った。いわゆるハムってやつだ。あの頃は『KING OF HOBBY』趣味の王様なんて呼ばれていて、憧れの世界だった。
インターネットも携帯電話も無い時代、遠くの人や海外の人と交信出来るというのはいかにも夢があった。で、最初に購入したのは50MHz/6mのAM・FMトランシーバーRJX-601だった。VFO(Variable Frequency Oscillator)の不安定さやダイヤルのバックラッシュなど、交信中の相手が周波数ズレで消えていってしまうのをVFOやRITを回して追いかていたのも今になれば趣のある光景だ。SSB(Single Side Band)の方が帯域も狭く遠距離まで通話出来たのだが、このリグはAM/FMのみでSSB交信の「モガモガ音」を指を加えて聞いていた。
高校生になってCQ誌なんかに掲載されていたBFO(Beat Frequency Oscillator)という装置を自作して復調していた。回路図が公開されていた事と、改造記事が頻繁に掲載されていたので、純粋に交信する楽しさと、ハンダごてを握りしめてハードを弄る楽しさを併せ持っていた。
50MHzという周波数は、通常見通し距離の地表波伝播で大体100km以内であるから、こいつを担いで山に登るとかなり遠い所と交信出来た。
この周波数のもう一つの楽しさにEスポ伝播があった。高度100km付近に突発的に発生するスポラディクE層に電波が反射して1500kmもの交信が可能となるのだ。この電離層の発生は夏に多く、突然沖縄や北海道、さらには、南太平洋のフィジー島、ソロモン諸島からの電波が伝わって来た。「ザザザザ」っていうノイズに混じって聞こえてくる訳のわかんない外国語。発生の予想が出来なかったし、海外からの電波が反射して届いて来ると言うホントに夢のような世界だったから興奮した。みんながQSLカードの交換を目指して一斉に交信を試みていたし、私もEスポが出たら高校の授業をこっそり抜け出して、部室で交信していた。
その後、TVI発生などの諸事情でこのBANDのQRVから遠ざかりHFの世界で電信(CW)にはまっていた。この周波数帯域はF層という電離層の反射を使っていたから、普通に遠くの人と交信が出来た。2アマを取って憧れの14MHzに出られた時もCWでDXを楽しんでいた。なんか訳の分からない言葉が出てくるけど、ハムの世界にはQ符号なんてのがあって、QRVは運用するの意味だった。ハム同士の会話では、独特の符号があって73セブンティスリーが「さよなら」の意味だったり、でも女性に対しての「さよなら」は88エィティエイトだったりしてた。YLが出るとパイルアップなんてハムしかわかんないんだけど、平気でそんな会話を喫茶店でしていた。おたくのDNAはこのころに培われたのだろうなあ。
Posted at 23:35 | 趣味 | この記事のURL | コメント(0) | トラックバック(0)
ACサーボモーター  2007年03月13日(火)
今から数年前、友人の提案で、自社で使用するACサーボモーターを使ったナンバリング装置の開発に関わった。送り状などで使用しているバーコードの字輪は一個100万円ととても高価で、製品の流れサイズが変わる都度カムなどを購入、カムの関係で4飛びとか6飛びとか色々な種類を揃えねばならない。6飛びだと予備なしでも、600万もの投資になってしまう。そこでナンバリングの字輪をACサーボモーターでコントロールしようという試みだった。ACサーボモーターシステムは、他のモータと比較して、急峻な加速/減速に追従でき、高頻度な位置決め制御ができる事や、速度制御範囲が広く高精度な速度制御ができる事に特徴を持っている。紙のスピードをパルスエンコーダーでひろってやり、ナンバリングの字輪が接触するタイミング、つまりバーコードを印刷する時だけ紙と同速度に制御をする。次のナンバ位置が来る迄の間に上記の特徴を生かして次の字輪が素早く位置待機をするという代物だった。口で言うのは簡単だったのだが、いざやってみると様々な壁にぶつかった。一番の問題は、インキ膜厚が一定にならないためバーコードがかすれたり潰れたりしてしまう事だった。
インキの練りローラーもACサーボでコントロールしていた為、急激なローラー回転速度の変化でインキ膜厚が一定にならなかったのだ。インキを入れたらトルクが不足してローラーが回らなくなっちゃったなんて笑い話もあった。どんな時も機械の開発を一緒にやっていて楽しいのは、パッと閃くブレークスルーの快感があるのだ。分かってしまえばなんて事のないアイデアなんだけど、たどり着くまでには紆余曲折、のたうち回る。で、結果として完成されたメカニズムというのはアインシュタインの公式ではないけど、本当に美しい。のたうち回った者だけが、機械を見て美しさを感じる目を養えるのだと思う。だから最終の完成品ばかりを見ていると、結論にたどり着くのは早いんだけど、そんな感性が衰えてしまう。挑戦して壁を乗り越えて行く。どんな時も「あきらめない」とご褒美があるんだ。煮詰まって完成されたメカニズムの美しさや、演算アルゴリズムの美しさには、時を忘れさせてくれる世界がある。
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デヴォン Devon  2007年03月12日(月)

暖かくなってきたので、玄関の絵を『サンルーに降る雪』から『デヴォン』に変えました。
笹倉鉄平さんの版画を購入したのは、『雨のポルトフィーノ』が最初でした。
作家の優しい視線や構図の美しさが印象に残り絵が到着するのをわくわくして待っていたのを覚えています。日本人画家として版画の世界で成功した一人だと思います。その後『プエルトバヌス』などいくつかの作品を購入しましたがそれぞれに思い出があるので季節が来たら紹介していこうと思います。
この『デヴォン』は、91×65cmという大きな作品で、点描でイギリス デヴォン地方のイメージが表現されています。目には見えない風の流れや光の表現に挑戦されている作品は、この他にも何点か存在しますが、私はこの作品が一番好きです。丁寧な点描と優しい色使い。木々のかたちがハートの構図になっているのも作家の優しい人柄が伝わってきます。
シルクスクリーンの工程は、原画→カラーセパレーター→調色→版作成→重ね刷りになりますが、カラーセパレーター(色分解師)の感性が作品の完成度に大きくかかります。
完成された版画作品は、別次元で原画をも超える世界を私たちに提供してくれます。
同じ笹倉鉄平さんの『手作り籠の店』という作品では、原画を170種類の色に分解し、なんと134版で重ね摺りされています。
4色でカラー空間を表現するオフセット印刷とは全く異次元の工程です。
微妙な色彩の変化や空間は、このような気の遠くなる工程を経て表現されているのです。
※場所が気になったので調べてみました。イギリスのダートムーア国立公園みたいですね。みやこさんのblog写真とよく似た風景です。

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レコード→CDへ  2007年03月12日(月)

先日先輩から手持ちのレコードのCD化を頼まれた。久しぶりの事なのでA/Dコンバータ部分ローランドEDIROL/UA-5のマニュアルを読んだり、波形整形のソフトを色々と試して遊んでいた。結構付属のソフトで波形整形は出来るのだけど、ノイズ除去は自動でやると極端に音質が劣化するので難しい。今は、携帯で音楽を楽しむ時代だからサンプリング周波数なんて関係無いのかもしれない。Hi-Fiオーディオなんて死語なんだろうなあ。

さて、先輩からレコードが届くまでに日があったので、手持ちのレコードを見ていたら何と懐かしい盤が続々とでてくるでは無いか。丁度大学生の頃よりJAZZにはまっていったのだが、そのころクロスオーバーとかフュージョンといわれるサウンドが流行っていた。海外では、デイヴ・グルーシンやスタッフが活躍していたが、日本でもナベサダや本多俊之がバリバリやっていた。そんな中の一枚がこれ。調べても廃盤になったりしてるとCD化に俄然気合いが入る。
何度も波形整形を試してはやり直すのだが、所詮入り口のレコード針の特性が悪い事もあって大満足とは行かなかった。でもこのCDを車で聴きながら走ってるととても気持ちがよい。青春まっしぐらって感じだ。アンサンブルも良くできている。
本多俊之とバーニングウェーブ。良い時代の一コマだ。
Posted at 21:22 | デジタル | この記事のURL | コメント(2) | トラックバック(0)
カラーユニバーサルデザイン  2007年03月12日(月)
今私が所属する全国青年印刷人協議会(全青協)では、2年前からカラーユニバーサルデザイン(CUD)の普及に取り組んでいます。
いわゆる色覚障害者といわれる人の中で一番多いケースは、赤と緑の区別が付きにくいのですが、日本人では男性の20人に1人、女性の400人に1人が赤緑色覚障害で、日本全体では300万人近く存在します。驚く事に男性のAB型の数に匹敵する訳ですから決して異常という訳ではありません。
また、80歳を過ぎると90%の人が白内障など目の病気になります。視力や色覚が低下して、様々な情報の区別が付きにくい人は、今後高齢化社会の中、増えて行く一方です。
しかし、これほど多くの人が生活する中で、色に配慮していないデザインは、テレビのリモコンや、車の操作盤、公共性の高い避難経路図や、救命現場で使用されるトリアージタグのよう命に関わる所でさえ、全く無関心に多く採用されているのが現実です。
上記の写真は色覚障害の方にはどのように見えているのかというサンプル画像です。
カラーユニバーサルデザインとは、多様な色覚を持つ様々な人に配慮して、色彩設計の効果的な使い方を吟味し、情報の整理を行うことです。それは色弱者だけでなく一般の人にとっても、整理された見やすいデザインを表します。つまり、すべての人に情報がきちんと伝わるように利用者側の視点に立ってつくられたデザインの考え方のことです。
これらCUDの考え方の良い点は、色などに配慮したデザインをもって、社会に貢献出来る事。もう一つは、我々業者として、新たな設備投資が不要だという事です。
また、これらの施策がU-JAPAN計画のもと国が推進するようになった事や、専用モニターや、専用の書体、専用のツールなど開発環境が整ってきた事なども発表されています。今年は友人の協力で福井県のガス会社様にCUDに配慮したカレンダーを配布して頂きました。「カラーユニバーサルデザイン」の考え方が広まり、「思いやりのある社会づくり」に印刷業に携わる一員として、少しでも貢献できればと考えています。

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