昭和の戦争 ノモンハン事件そして南進論へ

2012年03月31日(土)
昭和の戦争でノモンハン事件について、いろいろと見て来ましたが今回は日本がこの事件を契機として南進論に傾いていく事情を半藤一利氏の「ノモンハンの夏」から紹介・引用いたします。

以下、半藤一利氏の「ノモンハンの夏」より

陸軍中央は事件後に当時としては大規模な「ノモンハン事件研究委員会」を組織して、失敗を今後にどう活かすかを研究した。
しかし、その結論はどうみても落第点をつけるほかはない。
要はほとんど学ばなかったのである。
そして太平洋戦争で同じあやまちをくり返した。

その根本は、ノモンハン事件を日本軍がソ連軍と戦った最初の本格的な近代戦とみなさなかったことにある。
局地における寡兵による特殊な戦いと出発点から規定してしまえば、いくら検討しようが、結論はまともなものとはならない。

結果としては一年もたてば、ノモンハン敗戦の責任追及は終了したということになる。
しかも小松原中将は事件の一年後には世を去っている。
いったんは責任を問われて左遷された服部と辻が、いくばくもなく三宅坂上に華々しく復帰してきても、そこにはなんの不思議はないのである。

服部は一年後の、小松原が死んだ十五年十月には、なんと三宅坂上の参謀本部作戦課に栄転してきた。
ただちに作戦班長となり、翌十六年七月には作戦課長に昇格し、八月には大佐に進級する。
辻はやや遅れるが、十六年七月にひっぱられて参謀本部員となり、作戦課戦力班長として服部作戦課長を補佐し、太平洋戦争の発動に得意の熱弁をふるうのである。
いや、むしろ辻がまたしても作戦課全体をリードした。

十六年夏、不可侵条約をホゴにした予想どおりの独ソ戦の開始によって、大本営はその戦略方針の新たな決定をせまられる。
十五年九月に締結した日独伊軍事同盟にもとづいてソ連を攻撃するか、米英との開戦を覚悟で南方の資源地帯へ出るか、である。

服部作戦課長はいった。
「いま必要なのは、南北いずれにも進出しうる態勢を完整することだ。
北にたいしては、ドイツ軍の作戦が成功してソ連がガタガタの状態になったら、北攻を開始する。いわゆる熟柿(じゅくし)状態を待つ。
南方にたいしては好機を求めて攻撃を決断する。
すなわち『好機南進、熟柿北攻』の方針あるのみだ」

これまた秀才が考えそうな手前本位の、絵にかいた餅のような方針である。
若い参謀が反論する。
好機南進はかならず米英との戦争となる、独ソ戦の見通しもつかないうちに、日本が新たに米英を相手に戦うなど、戦理背反そのものではないか、と。

辻参謀が、とたんに大喝した。
「課長にたいして失礼なことをいうな。課長は広い視野に立っておられるのだ。
課長もわが輩もソ連軍の実力は、ノモンハン事件でことごとく承知だ。
現状で関東軍が北攻しても、年内に目的を達成するとはとうてい考えられぬ。ならば、それより南だ。南方地域の資源は無尽蔵だ。
この地域を制すれば日本は不敗の態勢を確立しうる。
米英恐るるに足りない」

若い参謀はなおねばる、「米英を相手に戦って、勝算があるのですか」。
辻参謀は断乎としていった。
「戦争というのは勝ち目があるからやる、ないから止めるというものではない。
今や油が絶対だ。
油をとり不敗の態勢を布くためには、勝敗を度外視してでも開戦にふみきらねばならぬ。
いや、勝利を信じて開戦を決断するのみだ」

いつか、どこかで聞いたような辻参謀の啖呵である。
こうして太平洋戦争への道≠ヘ強力にきりひらかれた。
そして服部と辻が「不明のため」に詫びねばならぬ英霊≠ヘ、数千のノモンハンと異なり、数百万におよぶ悲惨を迎えることになる。

ノモンハン敗戦の責任者である服部・辻のコンビが、対米開戦を推進し、戦争を指導した全過程をみるとき、個人はつまるところ歴史の流れに浮き沈みする無力な存在にすぎない、という説が、なぜか疑わしく思えてならない。
そして人は何も過去から学ばないことを思い知らされる。

上記は半藤一利氏の「ノモンハンの夏」より引用いたしました。

ノモンハン事件から日本陸軍は何も学ばなかったようで南進論という勝敗を度外視した戦争を推進していく参謀は自らの考え方に何の懸念も感じなかったのでしょうか、ノモンハン事件の自らの作戦指導の失敗を南進論にすり替えてしまったようで、このようなすり替えや無責任のツケが太平洋戦争でも同じ過ちをくり返すことになります。

今日は以上です。




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気づきと事業イメージ 共感・共有の「場」

2012年03月30日(金)
生活者意識の変化が人との「つながり」を通じて新たな「場」というものが形成されつつあるようです。

なぜ新たな「場」の形成が求められるのか、と言うことについては見方はいろいろとあるように思いますが今までの様にネットスキルが必要なインターネットではなく現在では誰でもが「つながる」ソーシャルメディア時代の特徴と言えるのかも知れません。

ソーシャルメディア時代だからと言っても人の結びつきが変わるものではなく、情報や体験の共有から共感や信頼が生まれ「つながり」となっていくのはごく自然なことであり、友人や地域の人たちの信頼・共感というものはソーシャルメディアやネットとは関係のないリアルな人と人の「つながり」にも影響を与えているようです。

新たな「場」ということで分かり易いケースとして生活者支援という観点からソーシャルコマースということをイメージしてもらうと口コミという情報が介在していることによって「つながり」により購買行動が決定されます。
ソーシャルコマースの購買につながる機能として信頼や共感または同好の人による「共有」が大きな役割を果たしている様に思われます。

生活者支援としての「場」というのは現在では口コミサイトや料理レシピサイトなどいろんなカタチがありますが“共感し共有する”ということが生活者が必要とする「場」に求められる要件と考えられるのではないでしょうか。

“共感し共有する”「場」に気づくことが出来れば事業イメージもカタチに出来るのでは、と思っています。
次回はどんな「場」が求められるか、ということで共感・共有と誰もが持っている資質について考えていく予定です。

今日は以上です。




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問題解決 ブログテーマ水曜日

2012年03月29日(木)
毎週木曜日に“問題点と解決法”というテーマでブログ目的・コンセプトに日々のブログ記事が沿っているのかを各曜日毎のテーマから検証しています。

各曜日毎のブログテーマということで土・日曜日から月曜日、火曜日のブログテーマを検証して来ましたが今回は水曜日の“日本産業史から考える”を取り上げます。

“日本産業史から考える”ことは明治期の近代産業の形成過程を現在は企業のにない手である近代企業家に焦点を当てて「指導者型」の企業家と「政商型」の企業家、「通常型」の企業家の三つのタイプから指導者型の代表として渋沢栄一の事績と考え方を紹介しています。

渋沢栄一という企業家については自国産業の育成発展に尽力したことは言うまでもありませんが明治という変革期において、その実業理念というものを「論語と算盤」「道徳経済合一説」などで経済社会の道徳観というものに力を注いだことでも知られています。

この水曜日のテーマである“日本産業史から考える”については今後はより具体的に渋沢栄一に焦点を当てながら社会認識と事業創出という「社会企業家」「社会事業」「ソーシャル・イノベーション」という価値観を掘り下げることで本ブログの目的である事業イメージの創出につなげることも可能であり、外知恵の活用が図られるものと考えています。

明治日本の近代産業の展開の中で企業家という観点から、どれだけ現代的な課題に踏み込めるか、難しいところですが、やりがいのあるテーマだと思っています。

今日は以上です。





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2012年03月28日(水)
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近代産業の展開 指導者型の企業家 渋沢栄一

2012年03月28日(水)

明治期における近代企業家の中でも指導者型の代表的企業家タイプとして渋沢栄一氏の大まかな事績を前回3月21日に「日本産業史」から見ていきましたが今日はこの続きとして渋沢栄一氏の企業に対する考え方を彼の伝記資料を「日本産業史」から見ていきます。

以下、「日本産業史」“近代産業の展開”

ところで彼がこのように多くの事業の創立、経営に関与したのは、必ずしも財を築くためではなかった。
それは彼が三井、三菱、住友、安田のような財閥にならなかったことからも明らかである。
また企業をおこすこと自体に関心を持っていたためでもなかった。

それよりも彼は、先進諸国の圧迫の下にあった後進国日本にとって自国産業を育て伸ばすことが最大の急務と考え、その実現に全力を傾けたのである。
この点は彼が大阪紡設立の動機について述べた次の一文からも明らかであろう。

「維新以来綿糸綿布の輸入類に増加し、殊に西南事変後紙幣膨張、物価騰貴の影響を受け、輸入益々増加して外国貿易甚だしく其均衡を失したるが故に、朝野共にその均衡を恢復(かいふく)するを急務と為し、就中(なかんずく)綿糸綿布の如きは日常の必需品にして、又輸入品の大部分を占むるを以て、先ず此等物品の製造を起すを急務と為せり。
……而して余は深く茲に慮り、熱心に尽瘁(じんすい)して一大紡績会社を起さんことを期し……」。(『渋沢栄一伝記資料』第十巻)

彼はまた商工業の発達には官尊民卑の風を改め、自主独立的な発展を図ること、実業教育をひろめ実業道徳を養うことの二つが必要と考えてその実現に努力した。

その現われとして明治期最大の実業家団体であった東京商業会議所(前身は東京商法会議所)ならびに銀行集会所の会頭として政府にしばしば実業家の主張を建議し、実現に努めたほか、東京高等商業学校、大倉高等商業学校、高千穂学校、東京高等蚕糸学校、岩倉鉄道学校などの創立、発展に尽くした。

さらに論語を徳育の規範として「論語算盤説」または「道徳経済合一説」を唱え、これを実践することで、実業界の道徳水準を高め、社会的地位を向上させようと努めた。
これらの点からみれば、渋沢は後進国日本が生んだ指導的大実業家であったといえよう。

上記は「日本産業史」“近代産業の展開”より引用いたしました。

企業家としての渋沢栄一の功績については後で詳細に掘り下げていく予定にしていますが、この日本産業史からの引用文を見ていると明治という時代精神をある意味で体現していたように感じます、欧米先進国に対して後進国日本の産業育成に全力を注いだ志士という見方も出来ると思います。

今日は以上です。




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決死の時代の声を聞く

2012年03月27日(火)

今の日本の情況と決死の時代の言葉を今もう一度、考えてみることで危機の時代と向き合う声を聞くことが出来るようにも思われます。
今回も宗教学者、山折哲雄氏の日経新聞に連載されている「危機と日本人」(4)を紹介・引用いたします。

以下、3月25日の日経新聞、山折哲雄氏「危機と日本人」(4)より

……堪え難きを堪え、忍び難きを忍び………
今から思い返せば、この言葉は、敗戦後という昭和後期の苦難の時代を象徴すると同時に、それはまた戦前の、昭和前期の冬の時代を下支えする、声にならない重苦しい気分をあらわしているようにも思う。
いうまでもなくこれは、「終戦の詔勅」に出てくる昭和天皇の言葉だ。
あの8・15に、時代の幕を切り裂くように突如としてわれわれの眼前に躍りでてきた言葉だったといっていい。

私は敗戦のとき、旧制中学の2年だった。
旧制のせまい庭が思い浮かぶ。
その上に立って、昭和天皇の「玉音放送」を直立不動の姿勢で聞いたのだった。
その日の5日前、ふるさとの町の半分は艦載機による空爆のため、すでに焼けただれていた。

やがて朝鮮戦争がはじまり、そして終わった。
戦後復興の槌音がきこえはじめ、いつのまにか経済が活気を呈するようになった。
そのころになって私はたまたま鹿児島に旅し、知覧の地を訪れる機会をもった。

少年航空兵たちが最後の日々を過ごし、そのまま南海の空に飛び立っていったカマボコ兵舎の中に入った。
そこに、かれらが書き残した遺書の一つひとつがていねいに掲げられていたのである。
……お母さん お母さん お母さん……」の文字を発見したのが、そのときだった。

見方によるのかもしれないが、昭和という危機の世紀は、右の二つの言葉によって今なお私の胸に忘れがたく刻印されている。
なぜならわれわれは、戦後の焼け跡と荒廃の中を、堪え難きを堪え、忍び難きを忍んで生きてきたからだ。

そして今日なお堪え難き政治の劣化、忍び難き経済の停滞の中を生きている。
ところが一方、周囲を見渡せば家でも街でも学校でも、「お母さん お母さん お母さん」の声や叫びをきくことはもうほとんどなくなっている。
危機の時代を象徴したはずの右の二つの言葉が、二つに引き裂かれたまま無造作に投げだされているようにみえるのである。

目を転じよう。
敗戦後、わが国の戦没学生たちの決死の経験を記した『きけわだつみのこえ』が刊行されて、大きな話題になった。
それはもうわれわれの記憶のかなたに薄れてしまっているのであるが、その数々の手記の中に忘れがたい文章が出てくる。
巻末に置かれている戦没学生、木村久夫の遺書である。

かれは上官の罪を黙って背負い、1946年(昭和21年)5月23日、シンガポールのチャンギー刑務所でB級戦犯として処刑された。
高知高等学校を経て、昭和17年4月、京都帝国大学経済学部に入学し、同年10月1日に入営しているが、処刑されたときは28歳、陸軍上等兵だった。

その木村久夫は処刑前夜に二首の歌を書き残したが、そのうちの一首が、おののきも悲しみもなし絞首台母の笑顔をいだきてゆかむ
であった。
今この歌をあらためて読み返すとき、「母の笑顔」を抱いて死におもむく作者の口元から、あの「お母さん お母さん お母さん」の声がきこえてくるような思いにとらわれる。

上官の罪を背負って処刑された陸軍上等兵、木村久夫の遺書は、全文が田辺元の『哲学通論』の余白に書かれたものだ。
岩波文庫の新版でいうと、23頁にも及ぶ長文の遺書である。
右に掲げた和歌はその最後に記され、それにつづけて「処刑半時間前擱筆(かくひつ)す」とある。

木村久夫はその死の4、5年前に、故郷で『哲学通論』を読んでいた。
それを出征のときに携えていき、人生最後の場面で3度通読した。
なぜ自分だけが犠牲にならなければならないのか。
陸軍の将校連の「態度の卑しさ」を目の当たりにし、身の潔白を証明できない口惜しさが文章の端々に出てくる。
が、やがて「最後の諦観」にすこしずつ近づいていく。
父母への思いやり、親切だった上官への感謝の言葉がつづき、「おののきも悲しみもなし……」にいきつく。

何も『きけわだつみのこえ』にかぎらない。
当時の決死の世代に属する若者たちが書き残した遺書の中には、ほとんど跡絶えることなく母の存在が登場してくる。
母を恋い、母に詫び、母にむかって語りかける若者たちの最後の声が、大津波のように寄せては返している。
その耐え難きを耐え、忍び難きを忍ぶ声を、しずかにすくいあげているのが和歌の、叙情のリズムだったのではないだろうか。

上記は3月25日の日経新聞、山折哲雄氏「危機と日本人」(4)より引用いたしました。

危機の時代こそ、お母さんに向かって語りかけることで堪え難きを堪え、忍び難きを忍ぶ、という決死の時代の声を語り続けることから得られるものが今の日本には求められているのではないでしょうか。

今日は以上です。





Posted by ケーオー at 11:55  / この記事の詳細
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イノベーション 植物工場

2012年03月26日(月)
イノベーションと言うと製造業やITサービス業を思い浮かべますが農業のイメージを変える植物工場に関する記事が3月25日の日経新聞「イノベーション」に掲載されていましたので紹介・引用いたします。

以下、3月25日の日経新聞「イノベーション」より

イノベーション ここを攻めろ J

東日本大震災で浸水し、塩害に苦しむ岩手県陸前高田市。
この地で今年6月からレタス生産に乗り出す企業がある。
ドーム型の農業工場を展開するグランパ(横浜市)だ。
社長の阿部隆昭さんは青森の地方銀行に28年勤務した元金融マン。
その時の経験で農機具ローンに不良債権が多いことを痛感した。
農家がむちゃな投資を企てたわけではない。
天候不順などで予定通りに収穫できず、それで返済計画が狂ってしまうのだ。

「何とかしたい」。
こんな問題意識で、銀行時代も海外出張した際は、オフの時間に先進農家を見て回った。
その結果たどり着いた答えが、外部環境の影響をシャットアウトできる植物工場だ。

グランパの既存設備がある神奈川県秦野市。
昨年春に完成した円形のビニールハウスに入ると、直径約20bの丸いテーブルの上に、無数のフリルレタスが並ぶ。
円の中心部はまだ小さな苗で、外側にいくほど葉が広がり、出荷が近い。
丸テーブルが自動的に回転し、レタスの成長につれて、外側に押し出していく。
1玉当たりの面積が広がり、場所の移し替え作業なしで、葉を伸ばすスペースを確保できるのが円形のミソだ。

露地栽培に比べて気温や水温を制御するので生産性は高い。
収穫までの日数は45日程度。
台風や雨不足などにも影響されず、毎日500株をコンスタントに出荷する。

「7年で投資回収」

阿部社長は「レタスのような葉物野菜は収穫が一定せず、外食チェーンなどは安定調達が悩みの種だったが、植物工場がそれを解消した。
コスト低減も進み、一流ホテルなどと長期契約して出荷していける」と打ち明ける。

塩害に苦しむ被災地にとってもメリットは大きい。
グランパを誘致した陸前高田市復興対策局の臼沢勉局長補佐は「当地の農業に新しい風が吹く」と期待する。
農地の塩分を取り除く作業は簡単ではないが、植物工場ならどこでも立地できる。
「農家の人たちは田や畑を元に戻したい、という気持ちが強い。
それは当然の希望だが、一方で近所に植物工場ができると、『こんな農業もあるのか』と新たな視界が開けるかもしれない」と臼沢さんは力を込める。
ドームの建設費用は3200万円。
陸前高田では8つのドームをつくり、「レタス1玉を120円で出荷し、7年で投資を回収したい」(阿部社長)。

弱点とされたコストの高さも徐々に改善されつつある。
自ら柏の葉キャンパス(千葉県柏市)で野菜工場の運営に取り組む千葉大の古在豊樹名誉教授は「ものすごいイノベーションがあったわけではないが、初期投資も光熱費や肥料代も知見の積み重ねで着実に下がってきた。レタスのような葉物野菜ならほぼ確実に利益が出る」と指摘する。

付加価値を高く

コスト低減と並ぶもう一つの方向性が高付加価値だ。
鹿島は千葉大、独立行政法人医薬基盤研究所と共同で、甘草(かんぞう)の水耕栽培に成功した。
甘草は漢方薬の7割以上に処方されるベース原料だが、原産地の中国が2000年ごろから採取制限を実施し、品薄が続く。
100%を中国などからの輸入に頼る日本は代替供給源を確保する必要に迫られている。

鹿島などは植物工場の設備だけでなく、種苗の提供や栽培ノウハウまでセットで提供する。
「空き工場の有効活用を考える企業の関心は高い」と同社グループリーダーの沢田裕樹氏はいう。
工場化のメリットは1年から1年半で収穫できる高速成長だ。
通常は4年以上かかる。
甘草は高値が続き、1`当たりの出荷額は現在3千〜5千円ほど。
付加価値も高い。

農業といえば「守りの産業」のイメージが強いが、生産性を高めれば、成長産業、輸出産業への脱皮に道が開ける。
震災からの復興や環太平洋経済連携協定(TPP)など貿易自由化と向き合う切り札として、植物工場への期待は今後も高まりそうだ。
                                       (編集委員 西條都夫)

上記は3月25日の日経新聞「イノベーション」より引用いたしました。

農業の製造業化の形態として植物工場というものがあるということだとすれば製造業の農業化という見方も出来るわけで農業と製造業という垣根を超えたところにイノベーションがあると言えるように思います。

今日は以上です。


                                                      


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2012年03月25日(日)
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近衛霞山の早世と頭山満

2012年03月25日(日)

明治の貴族である近衛霞山について、その東亜保全・興亜という基本的な考えをこれまで葦津珍彦氏の「武士道(戦闘者の精神)」から見て来ましたが、近衛霞山が没して後の近衛家の窮地と頭山満の関係について触れたいと思います。
いつもの様に葦津珍彦氏の「武士道(戦闘者の精神)」を前回3月18日続きで見ていきます。

以下、葦津珍彦氏の「武士道(戦闘者の精神)」より

この勢いに乗じて、霞山は、有志援助の政治資金を、大胆に集めて、おおいにこれを散じたらしい。
近衛時代の到来を予期して、投機のつもりで出資した連中は、かれがはからずも四十一歳で早世したのに失望した。

失望した多くの出資者は、一転して債鬼となって、わかい未亡人を責めた。
その惨状は、その子文麿(のちの首相)も秀麿(音楽家)も、痛切な少年時代の記憶として語っている。
秀麿の『風雪夜話』によれば、このときに現れたのが、在野の親友頭山満であった。

頭山は、債権請求者と称する連中を近衛家に集めて厳然として挨拶した。
貴殿たちの御出資は、大変に国家のために役に立ちました。
私から故人にかわって、御礼申します。
頭山は、これだけの挨拶をしただけで、あっさりと借用書をとりあげてしまった。

当時少年だった秀麿は、この記憶を語り、若くして後家になった母も感泣したにちがいないと書いている。
これで近衛家は倒産もせず、「御堂関白藤原道長日記」をはじめ、千有余年来の国宝的文化財を分散させないで、財団法人「陽明文庫」に収蔵することができた、というのである。

このエピソードを語っているのは、国際的音楽家として名声高い近衛秀麿であるが、かれが頭山満を通じて、「僕は―亡父の遺志と反骨の洗礼を受けたような気がしている」と書いているのは、非常に興味深い。

芸術家秀麿によれば、千数百年の近衛の家系からは、天才は出ないが多様多彩な異色ある人間が出ている。
しかしその中で、霞山こそは、第一等の人物だ、と思っているらしい。
私もそうだと思う。

貴族名門には、一般的にはつまらぬ人間が多いものだが、時としては貴族でなくては生まれないような品格のある人物が生まれることがある。
霞山公こそは、明治時代の貴族の中の貴族と称すべき存在だったのではあるまいか。
頭山満が在野浪人らしい「大人長者」だったとすれば、近衛霞山こそは名門貴族らしい「大人長者」と称すべき人であろう。

上記は葦津珍彦氏の「武士道(戦闘者の精神)」より引用いたしました。

五摂家筆頭の名門貴族であり霞山公の人柄などから政治資金の出資には思惑的なものがあったのではないでしょうか、名門貴族と在野の浪人頭山満が功名心などとは関係なく憂国の思いでつながっていたことが、上記のエピソードからも窺えるように思います。

今日は以上です。




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昭和の戦争 ノモンハンの悲劇 

2012年03月24日(土)

昭和の戦争を半藤一利氏の「昭和史1926―1945」をベースに見ていますがノモンハン事件については「昭和史1926―1945」の最後にも“ノモンハン事件から学ぶもの”ということで書かれています。
それだけ当時の日本にとっては重大な事件でした。

とりあえず、半藤一利氏の「昭和史1926―1945」のノモンハン事件についての続きを3月17日に続いて見ていきます。

以下、半藤一利氏の「昭和史1926―1945」より

結果的には日本側は五万八千九百二十五人が出動して戦死七千七百二十人、戦傷八千六百六十四人、その他を含め計一万九千七百六十八人と、三三パーセントつまり三分の一が死傷しました。

ふつう軍隊は三〇パーセントやられれば潰滅(かいめつ)という感じです。
それほどの大損害を受けたので。

ソ連軍も蒙古軍を含めるとたいへんな死傷者を出していて、二万四千九百九十二人といいますから日本人よりも多いんです。
それで近頃、うわついた評論家など「ノモンハンは日本が勝ったのだ」と言う人が少なくありません。
そりゃ死傷者だけをみれば、日本の兵隊さんが本気になってよくぞ戦ったというところもありますが、結果として国境線は相手の言う通りになったのです。

ハルハ川ではなくノモンハンまで出っぱったところ、ホロンバイル草原までが全部モンゴルの領土になったのですから、日本軍が勝ったなどとても言えません。

ジューコフの指揮のもと、最新鋭の戦車、重砲、飛行機を次々に投入してくるソ連軍に対して、日本軍は銃剣と肉体をもって白兵攻撃でこれに応戦したわけで、まことに惨憺(さんたん)たる結果となりました。

捜索隊第23連隊長・井置中佐自決、第8国境守備隊長・長谷部中佐自決、歩兵64連隊長・山県大佐孤立自決、野砲13連隊長・伊勢大佐孤立自決、歩兵62連隊長・酒井大佐負傷後送(こうそう)のち自決、元歩兵71連隊長岡本大佐入院中斬殺さる――
といった具合に、日本軍を指揮し最前線で戦った連隊長はほとんど戦死あるいは自決でした。

酒井大佐の「負傷後送のち自決」とは、戦闘状況の訊問の終わったあと、拳銃を置いて出て行かれ責任を取って自決せざるを得なかった、そういう悲劇もありました。

この戦いを指揮した関東軍の作戦参謀が、服部卓四郎中佐と辻政信少佐でした。

服部曰(いわ)く、「失敗の根本原因は、中央と現地部隊との意見の不一致にあると思う。両者それぞれの立場に立って判断したものであり、いずれにも理由は存在する。要は意志不統一のままずるずると拡大につながった点に最大の誤謬(ごびゅう)がある」

また、辻は、「戦争は指導者相互の意志と意志との戦いである。もう少し日本が頑張っていれば、おそらくソ連側から停戦の申し入れがあったであろう。とにかく戦争というものは、意志の強い方が勝つ」
二人とものほほんとしたことを言っていますが、そこからは責任のセの字も読み取れません。
まことにひどい話です。

戦争が終わってから「ノモンハン事件研究委員会」が設置され、軍による反省が行われました。
「戦闘の実相は、わが軍の必勝の信念および旺盛なる攻撃精神と、ソ連軍の優勢なる飛行機、戦車、砲兵、機械化された各機関、補給の潤沢(じゅんたく)との白熱的衝突である。
国軍伝統の精神威力を発揮せしめ、ソ連軍もまた近代火力戦の効果を発揮せり」

いいですか、こちら側は必勝の信念および旺盛なる攻撃精神でありまして、向こう側は戦車、砲兵、機械化された各機関、十分に潤沢な補給、それが白熱的に衝突したものである、というのが結論で、従って、

「ノモンハン事件の最大の教訓は、国軍伝統の精神威力をますます拡充するとともに、低水準にある火力戦能力を速やかに向上せしむるにあり」

要するに、これからもますます精神力を鍛える必要がある、ついてはもう一つ水準の低い火力戦の能力を向上させたほうがいいことがわかった、というわけです。

上記は半藤一利氏の「昭和史1926―1945」から引用いたしました。

この引用部分を見ていくと驕慢と無計画、無責任とその結果としての悲劇というものが見えてくるように思いますが当時と比べて現在はどうなんでしょうね。

今日は以上です。





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