昭和の戦争 ノモンハン事件そして南進論へ
以下、半藤一利氏の「ノモンハンの夏」より
陸軍中央は事件後に当時としては大規模な「ノモンハン事件研究委員会」を組織して、失敗を今後にどう活かすかを研究した。
しかし、その結論はどうみても落第点をつけるほかはない。
要はほとんど学ばなかったのである。
そして太平洋戦争で同じあやまちをくり返した。
その根本は、ノモンハン事件を日本軍がソ連軍と戦った最初の本格的な近代戦とみなさなかったことにある。
局地における寡兵による特殊な戦いと出発点から規定してしまえば、いくら検討しようが、結論はまともなものとはならない。
結果としては一年もたてば、ノモンハン敗戦の責任追及は終了したということになる。
しかも小松原中将は事件の一年後には世を去っている。
いったんは責任を問われて左遷された服部と辻が、いくばくもなく三宅坂上に華々しく復帰してきても、そこにはなんの不思議はないのである。
服部は一年後の、小松原が死んだ十五年十月には、なんと三宅坂上の参謀本部作戦課に栄転してきた。
ただちに作戦班長となり、翌十六年七月には作戦課長に昇格し、八月には大佐に進級する。
辻はやや遅れるが、十六年七月にひっぱられて参謀本部員となり、作戦課戦力班長として服部作戦課長を補佐し、太平洋戦争の発動に得意の熱弁をふるうのである。
いや、むしろ辻がまたしても作戦課全体をリードした。
十六年夏、不可侵条約をホゴにした予想どおりの独ソ戦の開始によって、大本営はその戦略方針の新たな決定をせまられる。
十五年九月に締結した日独伊軍事同盟にもとづいてソ連を攻撃するか、米英との開戦を覚悟で南方の資源地帯へ出るか、である。
服部作戦課長はいった。
「いま必要なのは、南北いずれにも進出しうる態勢を完整することだ。
北にたいしては、ドイツ軍の作戦が成功してソ連がガタガタの状態になったら、北攻を開始する。いわゆる熟柿(じゅくし)状態を待つ。
南方にたいしては好機を求めて攻撃を決断する。
すなわち『好機南進、熟柿北攻』の方針あるのみだ」
これまた秀才が考えそうな手前本位の、絵にかいた餅のような方針である。
若い参謀が反論する。
好機南進はかならず米英との戦争となる、独ソ戦の見通しもつかないうちに、日本が新たに米英を相手に戦うなど、戦理背反そのものではないか、と。
辻参謀が、とたんに大喝した。
「課長にたいして失礼なことをいうな。課長は広い視野に立っておられるのだ。
課長もわが輩もソ連軍の実力は、ノモンハン事件でことごとく承知だ。
現状で関東軍が北攻しても、年内に目的を達成するとはとうてい考えられぬ。ならば、それより南だ。南方地域の資源は無尽蔵だ。
この地域を制すれば日本は不敗の態勢を確立しうる。
米英恐るるに足りない」
若い参謀はなおねばる、「米英を相手に戦って、勝算があるのですか」。
辻参謀は断乎としていった。
「戦争というのは勝ち目があるからやる、ないから止めるというものではない。
今や油が絶対だ。
油をとり不敗の態勢を布くためには、勝敗を度外視してでも開戦にふみきらねばならぬ。
いや、勝利を信じて開戦を決断するのみだ」
いつか、どこかで聞いたような辻参謀の啖呵である。
こうして太平洋戦争への道≠ヘ強力にきりひらかれた。
そして服部と辻が「不明のため」に詫びねばならぬ英霊≠ヘ、数千のノモンハンと異なり、数百万におよぶ悲惨を迎えることになる。
ノモンハン敗戦の責任者である服部・辻のコンビが、対米開戦を推進し、戦争を指導した全過程をみるとき、個人はつまるところ歴史の流れに浮き沈みする無力な存在にすぎない、という説が、なぜか疑わしく思えてならない。
そして人は何も過去から学ばないことを思い知らされる。
上記は半藤一利氏の「ノモンハンの夏」より引用いたしました。
ノモンハン事件から日本陸軍は何も学ばなかったようで南進論という勝敗を度外視した戦争を推進していく参謀は自らの考え方に何の懸念も感じなかったのでしょうか、ノモンハン事件の自らの作戦指導の失敗を南進論にすり替えてしまったようで、このようなすり替えや無責任のツケが太平洋戦争でも同じ過ちをくり返すことになります。
今日は以上です。
