霞山近衛篤麿公
今日は貴族でありながら在野の志士たちとともに東亜保全、興亜という考えを示した近衛篤麿という人物を葦津珍彦氏の「武士道(戦闘者の精神)」から見ていきます。
以下、葦津珍彦氏の「武士道(戦闘者の精神)」より
明治時代の日本人の中には、洋風の文明開化に熱心なる潮流があるとともに、ヨーロッパの列強帝国主義に対抗して、東亜の保全、東洋の解放のために敢闘せねばならないとする大きな精神的潮流があった。
それは主として大陸浪人とか、在野の民党政治家の間に有力であって、支配体制の側の藩閥政治家、貴族、学者の主流等には、概して欧化主義的潮流がいちじるしかったと見ていいだろう。
しかしその間には、もとより例外もあり、公式的には割りきれない。
近衛霞山公などは貴族の中でも本格的に洋行留学で勉強した人であるが、卓然たる東亜保全、興亜の志をもって終始した英才であった。
かれが、多年の宿願たる洋行を許されて渡航するとき、時あたかも清仏戦争が戦われており、澎湖島に寄港したときに、同地はフランス軍の占領した直後で、フランス国旗が所々に掲げられているのを見た。
かれは、そのときの手録に、すでに東亜保全の緊急なるを痛感したことを明記している。
かれは、この初洋行にさいしては、先輩西園寺公望が全権公使として派遣されるのに同行したのであるが、同船同行しても、その心中の感想にはおのずからに異なるものがあった。
霞山近衛篤麿公は、明治日本の貴族の中で、もっとも貴族らしい大人物だったと称しうるだろう。
霞山公は、東亜問題、対露政策などについて、偉大な足跡を残したが、少壮四十一歳で早世したので、その政治生命は短かったし、その長子文麿(あやまろ)公が、たびたび首相となって昭和史上に有名になったほどには、一般的に知られていない。
昭和の貴族宰相文麿は、現代インテリらしい弱さをまぬかれなかった。
しかしその父霞山篤麿は、その青年時代、長いヨーロッパ留学で成長した人ではあったが、骨の太い豪勇の人だったらしい。
その豪気さを語るエピソードは少なくないが、近衛秀麿(音楽家)が、その随筆集『風説夜話』の中でつぎのような話を書いている。
霞山公は、在野の頭山満、中江兆民、佐々友房、神鞭知常や有名な七博士等と結んで、対露主戦論を力説しており、貴族院の重鎮として、政府、軍との重要な談判をつづけていたが、開戦の直前に病没した。
十数回にわたる全身の手術をしたが、麻酔剤を使用すると、不覚の間に、国家や同志の極秘の機密を洩らすおそれがあるというので、断固としてその使用を拒否した。
これでは外科の大手術の執刀はできない。
そこで公は、日ごろからひいきにしていた当時の両横綱梅ヶ谷と常陸山(ひたちやま)の二人に、満身の力をこめて身動きできぬようにおさえさせて、手術をさせた。
このような無理強引なことをしたので心臓が弱まり、ついに四十一歳の若さで没したという。
たしかに日露開戦直前の霞山公は、朝野のあらゆる機密情報の中枢に立つ人ではあった。
だがそれにしても、このような手術をみずからさせるということは、割腹するよりもはるかに激しい苦痛であるにちがいない。
私は、この伝説的なエピソードを通じて、霞山公に対する在野有志者の深い信望の理由がわかったような気がした。
上記は葦津珍彦氏の「武士道(戦闘者の精神)」より引用いたしました。
貴族らしからぬエピソードですが、明治という時代の気風に対する彼の気概を感じます。
今日は以上です。
