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2012年05月18日(金)
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気付きと事業イメージ 生活者目線のキーワード

2012年05月18日(金)

“外知恵をカタチに”というテーマで毎週金曜日は書いて来ましたが社会の変化が所謂ソーシャルなつながりを介して拡がっていることなどから生活者目線からの問題提起が気付きとなって事業イメージにつながるのではないだろうか、と感じています。

生活者目線からの問題と言うと、やはり身近なキーワードでは「不便」「不満」「不安」などに代表される「不」のつく言葉が思い起こされるのではないでしょうか、日常の生活シーンなどから考えると「不便」なことって結構あるものですが「不便」に慣れて気付かないということあるように思います。
例えば毎日の買い物なども高齢者にとっては近所への買い物でも負担に感じることがある様に思われます、私も町で重そうな買い物籠を引いている方を何度か見かけたことがあります。

買い物については宅配サービスも利用されて来ているようですが、高齢者が利用出来るまでにはなっていないのではないでしょうか、ネットを介してのサービス以外にもいろんな仕組みがあってもいいように感じます。
以前にこのテーマで取り上げた「取次ぎサービス」を進化させることで生活シーンに感じられる日常的な「不便」はある程度解消されるようにも思われます。

毎日の買い物だけでなく、いろんな不便ってあるもので日常的にサポートされているケースがある場合とサポートされていないことがあるもので案外とイザという時に役に立たない場合もあるものです。
このような時に担当者や専門家にうまくつないでくれると助かるものですが、いろんなネットサービスが活用されている中で「日常的生活シーンのこんな時」というのは生活者目線から「不便」「不満」「不安」というキーワードを掘り下げていくことで現代版の取り次ぎサービスの具体的なカタチが見えて来るように考えられます。

ただ、ソーシャルメディアを介して生活者がつながるソーシャルプラットフォームが活かされる場合もありますがソーシャルメディアやネットだけでなく、生活者同士の具体的なつながり・コミュニケーション関係を実務的な面から支援を求められていくように感じています。

「生活シーンのこんな時」を「不便」「不満」「不安」というキーワードと掛け合わせてみることで気付くことがあるのではないでしょうか、次回は生活シーンを想定しながら考えます。

今日は以上です。



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問題解決 ブログの「思い」を覚る

2012年05月17日(木)
ブログに対する「思い」ということを、どのようにして解りやすい言葉で表現するかについて、今一番頭を悩ませています。
現在のところ、ブログテーマは曜日毎に設定していますが、ブログを通して「何を言いたいのか」ということに対して私自身がもっと突き詰める必要があるように思っています。

読んで解りやすく何よりも読者にブロガーの「思い」というものが伝わることが一番望ましいということまでは分かっているものの私自身に置き換えた場合に読者に伝えるべき「思い」が具体的に伝えられていません。
基本的な意味においてブロガーの「思い」はどのように表現されているのか、と言うと例えば「思い遣り」であったり「人情」また「生き方と志」や「現状生活と目標」など言葉としての表現はさまざまですがブログを読んでいると自ずとブロガー「思い」が感じられます。

私がブログを通して伝えるべき「思い」とは、と考えると急に難しいものに感じられてしまいます、ただ今書いている曜日毎のテーマから言えることは私自身の進むべき方向性と日本というものをどこかで重ねることが出来ないだろうか、ということは感じているものです。

そこから掘り下げていくとブログ目的が「事業イメージの創出」ということであることは以前からも書いて来ましたが、今書いているブログテーマの中で「危機と日本人」「昭和の戦争」「武士道(戦闘者の精神)」というテーマに関しては事業イメージの創出や“外知恵”とは何等関係のあるものではありません。
それなのに、なぜこのようなテーマを扱っているのかということを私自身がハッキリとさせておかなければ解りにくいブログのままになってしまいます。

「危機と日本人」「昭和の戦争」「武士道(戦闘者の精神)」というテーマを私が取り上げているのは幕末の攘夷倒幕活動から明治維新によって日本は近代国家をつくることに成功しましたが大東亜戦争の敗戦によりそれまで築き上げたものを壊してしまいました、また戦後、経済復興から奇跡の高度成長を遂げましたがバブルの崩壊以後は長期低迷を余儀なくされています。

日本の成功と失敗をその歴史などから、また長期に亘る低迷の原因などを探りながら私自身が出来ることをつなげられればと言うことがこのブログを書き続けている理由なのかも知れません。
と他人事の様に言うのも、なぜブログを書き続けているのだろうか、ということを考えながら書いて来てヒョットすればこういうことだったのか、と自分で納得出来たからです。

今日、私が漸くこのブログに対する「思い」“私自身の方向付け(外知恵)と日本を考えることを重ね合わせていきたい”と覚ることが出来たことで何か霧が晴れたように感じられ少し前進出来たのではと思っています。
今後はこの「思い」をどのような言葉で解りやすく表現していくか、について考えていく予定です。

今日は以上です。




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企業家 渋沢栄一 一橋家家臣に

2012年05月16日(水)
渋沢栄一が攘夷行動を寸前で中止して、かって知遇を得て仕官を進められていた一橋家用人・平岡円四郎に相談し平岡円四郎家来という名目をもらって京に滞在しながら、その後の生き方を前回5月9日続き島田昌和氏の社会企業家の先駆者「渋沢栄一」から見ていきます。

以下、島田昌和氏の社会企業家の先駆者「渋沢栄一」より

平岡は旗本の家に生まれ、若い頃から藤田東湖や川路聖謨(としあきら)に評価されて推薦を受け、一橋慶喜に仕えた身であった。そのような境遇にあったこともあって渋沢らを評価していたようであり、軽輩から始める覚悟があれば、と誘いの手を差し伸べてくれた。

当時の一橋慶喜は朝廷から参預に取り立てられるなど独自の政治的立場にあったとはいえ、徳川家に連なる家柄であり、喜作と二人でその話を受けるべきか相当に悩んでいる。

しかしながら自らに降りかかる嫌疑から逃れ、獄につながれた長七郎を救出するためには武士身分となることが必要と考え、同時に攘夷の直接行動の無謀さもわかってきており、現実的な選択としてこれを受け入れることに決めている。

栄一は一橋家の家臣になることを自らに納得させる理屈付けとして、一橋慶喜が尊皇の家である水戸家の出であり、朝廷より禁裏御守衛に任じられていることから、今後も幕府本体とは離れた対応を求め、そのための実力ある人材の登用を進言するなどしている。

栄一の仕官は軽輩から始まったが、すぐに一橋家の対外折衝を担う「御用談所」で働く「下役」に取り立てられる。
薩摩藩の動向を探るために幕府から摂海防御砲台築造御用掛に任じられた同藩の折田要蔵に弟子入りして、その内情を探る任務についたりもしている。

当時の一橋家の家臣団は、家老は幕府内で大目付や奉行を務めた人間がその後に転じてきており、お飾り的な存在であった。
江戸と京都に三人ずつ配された用人が実質的な政務執行者であった。
京都には老齢の成田藤次郎と幕府の目付から転じてきた黒川嘉兵衛がいたが、平岡が秀でていた。
平岡はこれに先立つ将軍継嗣問題でも越前の橋本左内らと連絡を取り、慶喜の擁立に尽力したが敗れて左遷された。
しかし、一八六二年の慶喜の将軍後見職就任後に一橋家に復帰し用人となった。

慶喜上洛後、側用人番頭、家老と駆け上がり、慶喜の政治活動の実働部隊の一人であった。
渋沢はこの平岡に見出され、その手足となって働き、農民出にもかかわらず一橋家内で急速な出世をしていった。

平岡から次に与えられた職務は関東に下って一橋家に有用な人材を発掘してくる「関東人選御用」であった。
渋沢は千葉道場の塾生等を頼りにしていたが、水戸の天狗党の乱等に加わって四散しており叶わなかった。
それでも五〇人近くを一橋領内から京に連れ帰っている。

上記は島田昌和氏の社会企業家の先駆者「渋沢栄一」より引用いたしました。

渋沢栄一が生まれ育った環境によって身に付けた教育、体験を平岡円四郎は見込んだということかも知れませんが一橋慶喜が政治的な立場を強化していくとともに人材を求めたことが渋沢にとっては、その才覚を活かせるキッカケとなったように思われます。

今日は以上です。




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汚名を着て国を救う 樅の木は残った

2012年05月15日(火)

現代日本の情況を考える上で山本周五郎が伊達騒動を主題にした「樅の木は残った」の主人公、原田甲斐を取り上げて政治に翻弄される武士の姿から現代に思いを巡らせた日経新聞、日曜日に連載されている宗教学者の山折哲雄氏の「危機と日本人」を紹介・引用いたします。

以下、5月13日の日経新聞、山折哲雄「危機と日本人」(11)より

国民の耳目を集めた裁判の一審判決が、「無罪」で終わった。
小沢一郎民主党元代表をめぐる裁きの庭である。
政治資金の処理について有罪か無罪かが争われたのだった。
判決をみると金の流れは不透明であるが、「共謀」の犯罪は立証できないので無罪なのだという。
白か黒かわからない、かぎりなく黒に近い灰色だ、というのが大方のメディアの診断だった。
控訴はされたものの、このところ国会でもこれまた緊張を欠いた灰色模様の党利党略をみせつけられていたので、当分のあいだ気分は晴れそうにない。

つれぞれのまま思いおこすのが、山本周五郎の長編『樅(もみ)の木は残った』である。
伊達騒動を主題にした小説である。
仙台藩六十二万石に保守派と進歩派による権力闘争がおこり、そのスキに乗じて幕府がお家取りつぶしを策する。
通説では、進歩派に属する家老の原田甲斐が騒動の主犯、すなわち腹黒い悪人と評されてきたが、それはあくまでも原田のオモテの顔で、じつはひそかに藩の危機を救うため、みずから凶刃に伏した忠義の武人だった、というのが作家、山本周五郎の見立てだった。

お家の取りつぶしをはかる幕府の大老が酒井雅楽頭(うたのかみ)、そうはさせじとその陰謀に身を挺(てい)して対決したのが封建武士の意地をみせる原田甲斐。
終幕で、江戸の酒井雅楽頭の邸で審問がおこなわれ、原田が保守派の伊達安芸に斬りつけ、逆に虐殺されて果てる。
危いところで、六十二万石を召上げる陰謀が潰える。

この小説は昭和29年(1954年)7月から翌30年4月まで、さらに昭和31年3月から同9月までの二度にわたって『日本経済新聞』紙上に連載され、あらたに350枚を加筆して完成をみた労作である。
作者は原田甲斐の人間を描くにあたって、花や自然を愛し、人の心を美しいものと思い、しかし自分自身は孤独な喜びのなかに自足する自然人として、魅力的な人物を浮かび上がらせようとしている。
それが政治の渦中にまきこまれ、悪の中心人物と思われるような行動にすすまなければならなくなる。
作者は日ごろ、政治はつねに庶民から何ものかを奪い、服従を強いる存在として立ちはだかるものだ、といっていた。
そこからくる行きどころのない憤りと、深い孤独感がこの作品にも色濃く立ちのぼっているのである。

私は上京するときは、よく東京駅近くのホテルに宿をとる。
便利であるからだが、そんなとき皇居大手門のすぐそばに鎮座する平将門の首塚にお詣(まい)りする。
天慶3年(940年)に、将門は逆賊として殺されたが、怨(うら)みをふくんだかれの首は宙を飛んで、各地に遺恨のあとをのこした。
江戸の神田明神をはじめとする神社や首塚が、各地に祀(まつ)られることになったのだ。

そこを訪れるたびに感心するのだが、そのせまい一画がいつも誰かによってきれいに掃き清められている。
それに香華が絶えない。
将門信仰がこの地にいまだに息づいているのがわかる。
じつをいうとこの地は、明治時代には大蔵省があったところだ。
ところが、新時代の官庁にそんな首塚のようなものが祀られているのは近代国家の恥であるとして、たびたび撤去の話がもちあがった。
もっともな議論であったが、不思議なことにそのつど異変がおこり沙汰やみとなった。
ついに大蔵省はこの地を逃げだし、現在の霞が関に移ってしまったのだという。

だが、縁は異なものというべきか、この平将門の首塚の場所は、どういう歴史の幾転変があったのかはしらないが、江戸時代になって酒井雅楽頭の上屋敷の庭になった。
しかもその屋敷で、あの伊達騒動で知られる原田甲斐と伊達安芸が殺し合いを演じて血を流したのである。
因縁の場所というほかはない。
前方をみれば皇居のお堀端。
南へ歩けば東京駅の赤レンガを眼前に望むことができるが、その地にサムライたちの怨霊、亡魂の影がいまなお立ちこめているのである。

武家屋敷の庭は、しばしば罪人を引き立ててきて審問する場に変じた。
罪状認否をおこなうお白洲(しらす)である。
白い砂や小石が敷きつめられているから、お白洲といった。
伊達騒動で取り調べをうけた伊達安芸と原田甲斐も、その酒井雅楽頭の上屋敷の庭で糾問をうけたのである。

いま、その首塚から地方裁判所まで、内堀通りを歩いてほぼ三十分、国会議事堂まで小一時間である。

上記は5月13日の日経新聞、山折哲雄「危機と日本人」(11)より引用いたしました。

権力闘争という渦中に巻き込まれていく人物を通して、お家を守るためには敢えて汚名を着ることで陰謀を潰すことに身を挺した原田甲斐の武士としての生き方を取り上げながら山折氏は私たちの現代社会に対する生き方を問うているように感じました。
原田甲斐という人物をどう捉えるか、今の時代だから考えてみることが必要なのかも知れませんね。

今日は以上です。




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ドラッカー 「イノベーションと企業家精神」日本語版への序文から 成功に対する疑問

2012年05月14日(月)
1985年に書かれたドラッカーの「イノベーションと企業家精神」日本語版への序文の前半部分を前回5月7日に紹介・引用いたしましたが前半部分に続いて後半部分で高齢者問題と社会的な問題について言及されていることを現在時点から見ていくことも日本の産業社会を考える上で参考になると思います。

以下、ピーター・F・ドラッカー「イノベーションと企業家精神」日本語版への序文(一部抜粋)より

日本のみならず、すべての先進国が直面している問題として、伝統的な退職年齢を超える高齢者人口が、あらゆる世代のなかで最も急激に増大しつつあり、近いうちに最大の年齢層となることが確定しているという人口構成の現実に対して、年齢に対する概念をどのように適応させていくべきであろうか。
高齢者が退職を望むにせよ、あるいは望まないにせよ、彼らを無為の状態においたまま扶養できるだけの経済力をもつ社会というものは、いったいありうるであろうか。

これらはすべて、日本の読者諸賢におかれては、熟知しておられる問題である。
しかも他の先進国に先がけて、日本が対策を講じはじめている問題である。
しかし、それでもなおかつ、これらの問題は、日本に対して、社会概念と社会政策のあり方について再考を迫っている。
明治時代に実現した社会的イノベーションほどには革新的たりえないかもしれないが、とにかく今、日本は社会的イノベーションを強く要求されているのである。

日本において、この社会的なイノベーションに対する最大の障害となっているものは、かつてのイノベーションの時代とは異なり、今日の日本人が当然のこととはいえ、自らの成功を自らの実感として感じとってしまっているという現実である。
成功に対して疑問を投げかけるほど難しいことはない。
しかし日本は、教育、医療、地方自治、労使関係、雇用慣行等、その他あらゆる社会的領域において、自らの成功に対して疑問を投げかけるべきときにきている。
とくに日本の場合は、問題に対する解答として用意してあるものは、一〇〇年前の問題に対する解答であって、今日の問題に対するものではない。

イノベーションと企業家精神に関する議論のほとんどは、ベンチャービジネス、つまり新しく小さな企業に焦点をあてている。
だが、イノベーションと企業家精神は、ベンチャーだけの問題ではない。
既存の大企業にとっても、企業家としてイノベーションの担い手となることは、絶対に必要なことである。

一〇〇年前には、このような問題は存在しなかった。
そもそも既存の企業の数など、あまり多くなかったからである。
日本の場合には、ほとんどなかったといってよい。
四〇年近く前にも、この問題はさほど大きくはなかった。
当時、とくに日本では、既存の企業は混乱の極にあり、それまでの経営陣は崩壊してしまっていた。
社名こそ由緒あるものであったが、すべての企業がベンチャービジネスのようなものであった。

しかし今日においては、企業家としてイノベーションを行うことの必要について、大企業から中小企業にいたるまで、既存の企業すべてに対して、声を大にして訴えなければならない。
いかにして企業家たるべきかは、明らかである。
イノベーションの方法も明らかである。
とくに日本の場合、実例は豊富にある。

上記はピーター・F・ドラッカー「イノベーションと企業家精神」日本語版への序文(一部抜粋)より引用いたしました。

日本が自らの成功体験に対して、あらゆる社会的領域において、「自らの成功に対して疑問を投げかけるべきときにきている」という指摘に対し、その後の日本は自らの成功体験を否定し社会的イノベーションをなし得たのでしょうか。
1985年当時のドラッカーの指摘に対応した社会的イノベーションの不在が日本の長期低迷理由の一つかも知れませんね。
次回もイノベーションを考えていく予定です。

今日は以上です。




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2012年05月13日(日)
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昭和維新への思想潮流としての三月事件、十月事件に対する見方

2012年05月13日(日)

昭和維新としての二・二六事件につながる最初の事件として三月事件や十月事件があり、その中心的人物である橋本欣五郎中佐の考え方葦津珍彦氏の「武士道(戦闘者の精神)」から前回5月6日の続きで思想的な対立と潮流を見ていきたいと思います。

以下、葦津珍彦氏の「武士道(戦闘者の精神)」より

三月事件では、宇垣内閣が計画され、のちに首相となった小磯国昭少将も参加しており、十月事件ではその後間もなく陸相になった荒木貞夫中将を首班とする内閣が計画された。
そのいずれにおいても、もっとも積極的な活動をしたのは、橋本欣五郎中佐とその系列下にある長勇少佐(のちに中国の特務工作で活躍、終戦直前沖縄で玉砕した軍の参謀長として自刃)等の少壮幕僚であった。
橋本欣五郎中佐がこの計画を考えるのに大きな影響をうけたのは、かれがトルコ駐在武官時代に見聞したケマル・アタテュルクの独裁政治であった。

橋本氏は、ただの官僚的武官でなく、覇気満々たる武人である。
戦国乱世の野武士的な風がある。
同志や後輩を激励するのに、クーデター成功後の権力的ポストや二階級特進や特別勲章までも予約する。
「賞は戦功によって望みにまかせて授けるぞ」というつもりなのだろう。
これが一方では理想主義的な青年に鋭い反発を感じさせた大きな一理由となる。
それに思想的には「国防第一」の理念には、当然に批判がおこる。

幕僚連中は「国体」を論じ「農村への救援」についても論ずる。
しかしここでは、国体も農村も、国防強化のための手段として、その必要を認められているかの感がある。
国体を第一とし、あるいは農民を第一とする者からすれば、それは野望的な職業軍人の倒錯した思想としか見えない。

それは思想的・精神的に深刻なものをもっていない。
十月事件によって結ばれた青年将校や民間人が、橋本等から分離していったのも無理でない。
それに政治的にも、日本よりはるかに後進国のケマル・アタテュルクを学んだことが、戦術的にもまずかった。
戦術的にもまずかった。
ケマルはトルコのような非工業後進国だったので、もっぱら軍事力に依存して独裁に成功した。

ヒットラーやムッソリーニは、都市と工業の有力な国で独裁をするのには、大衆の動員と組織の重大性を痛感していた。
かれらは軍事力よりも大衆煽動の威力で勝利を得た。
橋本中佐の十月事件計画のころは、ムッソリーニはイタリアの独裁者として有名だったし、ヒットラーはいまだ政権を獲得していないが、すでに世界の注目をひいて大進軍をしていた。

しかし橋本氏は、口ではムッソリーニの名をあげても、その政治戦術ではヒットラー、ムッソリーニをほとんど学んでいない。
後進国的な軍事力至上主義である。
この武力至上主義的な傾向は、十月事件に反発を感じた人々の間にも根強く糸をひいており、二・二六にいたるまでつづいている。

この時代を通じて、大衆へのアピールの必要を高く評価し、その実践的活動において、大衆へのアピールに力を注いだのは、神兵隊の天野辰夫氏と結んだ東方会の中野正剛氏あるのみといっても過言であるまい。

上記は葦津珍彦氏の「武士道(戦闘者の精神)」より引用いたしました。

三月事件、十月事件というのは陸軍におけるはじめての派閥である桜会の中心メンバーである少壮幕僚による国防第一体制の構築にあったわけですが何れの事件もメンバーの離反によって未遂に終わっているだけに維新という意味で理想主義的な見方と対極にあったとと思われます。
次回もこの後の昭和維新への思想的潮流を追っていく予定にしています。

今日は以上です。




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昭和の戦争 親独感情

2012年05月12日(土)

昭和十年前後当時、英米に対する感情と比べて特にドイツを見る目の親近感と期待が強かったように思われますが、この辺りの様子を半藤一利氏の「昭和史1926―1945」から前回5月5日続きで見ていきます。

以下、半藤一利氏の「昭和史1926―1945」より

ドイツはイギリス、フランスなどと違って新興国家です。
もちろんプロイセン時代がありますから古い国家ではありますが、ナチス・ドイツは言うまでもなく、ドイツが統一されたのが非常に新しいのです。
日本の憲法そのものはプロイセン憲法を受け入れています。
また医学ではベルツをはじめとするドイツ医学に多くを学び、軍事学でも陸軍のメッケル少佐の恩恵(おんけい)を蒙(こうむ)っていましたし、他にも哲学、文学、教育はフィヒテ、ケーベル、ブッセといった人たちの影響を受けてきました。

昭和に入ってからもその傾向は大きくなり、ヘーゲル、ショーペンハウァー、アインシュタイン、コッホなどがその例です。
また日本の医学者、軍人、思想家、音楽家、法律家などはほとんどドイツに留学して学び、そのレベルを上げていきました。
このように親独感情は根強くかつ根深くあったのです。

さらに言えば、ナチス・ドイツです。
ヒトラー総統によってドイツが軍事化され、第一次世界大戦でこてんぱんにやられたドイツが、その屈辱をはねのけて、堂々たる国になったどころか、ヨーロッパの新秩序をつくろうという、いわばヨーロッパの盟主になろうとしている。
昭和十年前後にベルリンを訪れた日本の陸海軍の軍人や外交官らは、その大いなる成果、ドイツの二段飛び三段飛びの発展ぶりに目を見張ったのです。

さらに付け加えれば、どうもドイツ人は日本人と性質がよく似ているのですね。
堅実で勤勉、几帳面、組織愛に満ち、頑固で無愛想―あまり外交的ではないということですが―形式を重んじ…とマイナスも含めて似ています。
しかもともに単一的民族国家(ドイツはゲルマン民族)ですから、団体行動が得意、規律を重んじ、遵法(じゅんぽう)精神に富み、愛国心が強い。

そしてともに教育水準が高く、頭が良くて競争心が強く、働くことに生きがいを感じている…というように日本人がドイツ人に親近感をもったとすれば、それに比べてイギリス人のそっけなさや冷たさ、フランス人の外交的な軽佻浮薄(けいちょうふはく)さインチキさ、アメリカ人の「われこそ世界の警察官である」というような傲慢(ごうまん)さ横柄(おうへい)さは日本人には合わないというので、反英米感情と裏腹に親独傾向がどんどん強くなっていきました。
すると三国同盟は、実にいいことじゃないかという空気が一般的になってきたのです。

上記は半藤一利氏の「昭和史1926―1945」より引用いたしました。

日本とドイツは、当時の国際的な立場や背景からも似通った一面とナチス・ドイツの勢いに惹かれたように思いますがナチス・ドイツの思惑に振り回されていたようにも感じます。
三国同盟推進派に対して米内・山本・井上の海軍トリオがどのように対したのか、を次回も見ていきます。

今日は以上です。




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気付きと事業イメージ 「可視化」と“外知恵”

2012年05月11日(金)
社会の変化におけるソーシャルな一面として「可視化」ということに前回5月4日のブログで触れましたが今回は、何が「可視化」されるのか、ということについて考えてみようと思います。

インターネットがより進化した状態と言えるソーシャルによって「つながり」というものがより意識されるようになり、そして「つながり」から共感・共有というスタイルが生まれ定着しつつあります。
共感し共有することが出来るのは、「可視化」という仕組みが機能しているように思います。

それでは「可視化」されるものとは何があるのでしょうか、可視化されることによって変わる価値観に気付くことこそが時代の変化に対応した事業イメージにつながるものと言えるのではないでしょうか。
どんなものが「可視化」されるのか、ということで考えていくと一番わかりやすいケースとしては口コミということになりますが基本的には「人」そのものであり商品やサービスの評価を共感というフィルターを通して体験を共有する「つながり」が今の時代の口コミということだと思います。

ただ、「可視化」されることで最も大きな変化をもたらすものは「知恵」ではないでしょうか、「知恵」に対する評価や共感という行動が人やモノの新たなマッチングを促し変化に対応した価値観(共生・共創)を生み出していくものと思います。

そして、この「知恵」を活かす考え方が“外知恵”であると考えています。
“多くの人による現状をより良くするための創意工夫であり、そのための多様多岐に亘るモノの見方・考え方”
現状の生活観からの課題を解決するため考え方を具体化した知恵であると捉えています。

この手段としての知恵を「可視化」することで生活者目線での問題提起により今までの企業と消費者という考え方が変わっていくように思われてなりません、本来の意味におけるソーシャル・ビジネスというものをイノベーションする可能性を秘めているのが知恵の「可視化」というものであり外知恵の考え方であると思っています。

次回は生活者目線での問題提起ということで進めていきます。

今日は以上です。





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