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2012年05月18日(金)
気付きと事業イメージ 生活者目線のキーワード
2012年05月18日(金)
“外知恵をカタチに”というテーマで毎週金曜日は書いて来ましたが社会の変化が所謂ソーシャルなつながりを介して拡がっていることなどから生活者目線からの問題提起が気付きとなって事業イメージにつながるのではないだろうか、と感じています。 問題解決 ブログの「思い」を覚る
2012年05月17日(木)
ブログに対する「思い」ということを、どのようにして解りやすい言葉で表現するかについて、今一番頭を悩ませています。
現在のところ、ブログテーマは曜日毎に設定していますが、ブログを通して「何を言いたいのか」ということに対して私自身がもっと突き詰める必要があるように思っています。 読んで解りやすく何よりも読者にブロガーの「思い」というものが伝わることが一番望ましいということまでは分かっているものの私自身に置き換えた場合に読者に伝えるべき「思い」が具体的に伝えられていません。 基本的な意味においてブロガーの「思い」はどのように表現されているのか、と言うと例えば「思い遣り」であったり「人情」また「生き方と志」や「現状生活と目標」など言葉としての表現はさまざまですがブログを読んでいると自ずとブロガーの「思い」が感じられます。 私がブログを通して伝えるべき「思い」とは、と考えると急に難しいものに感じられてしまいます、ただ今書いている曜日毎のテーマから言えることは私自身の進むべき方向性と日本というものをどこかで重ねることが出来ないだろうか、ということは感じているものです。 そこから掘り下げていくとブログ目的が「事業イメージの創出」ということであることは以前からも書いて来ましたが、今書いているブログテーマの中で「危機と日本人」「昭和の戦争」「武士道(戦闘者の精神)」というテーマに関しては事業イメージの創出や“外知恵”とは何等関係のあるものではありません。 それなのに、なぜこのようなテーマを扱っているのかということを私自身がハッキリとさせておかなければ解りにくいブログのままになってしまいます。 「危機と日本人」「昭和の戦争」「武士道(戦闘者の精神)」というテーマを私が取り上げているのは幕末の攘夷倒幕活動から明治維新によって日本は近代国家をつくることに成功しましたが大東亜戦争の敗戦によりそれまで築き上げたものを壊してしまいました、また戦後、経済復興から奇跡の高度成長を遂げましたがバブルの崩壊以後は長期低迷を余儀なくされています。 日本の成功と失敗をその歴史などから、また長期に亘る低迷の原因などを探りながら私自身が出来ることをつなげられればと言うことがこのブログを書き続けている理由なのかも知れません。 と他人事の様に言うのも、なぜブログを書き続けているのだろうか、ということを考えながら書いて来てヒョットすればこういうことだったのか、と自分で納得出来たからです。 今日、私が漸くこのブログに対する「思い」を“私自身の方向付け(外知恵)と日本を考えることを重ね合わせていきたい”と覚ることが出来たことで何か霧が晴れたように感じられ少し前進出来たのではと思っています。 今後はこの「思い」をどのような言葉で解りやすく表現していくか、について考えていく予定です。 今日は以上です。 企業家 渋沢栄一 一橋家家臣に
2012年05月16日(水)
渋沢栄一が攘夷行動を寸前で中止して、かって知遇を得て仕官を進められていた一橋家用人・平岡円四郎に相談し平岡円四郎家来という名目をもらって京に滞在しながら、その後の生き方を前回5月9日に続き島田昌和氏の社会企業家の先駆者「渋沢栄一」から見ていきます。
以下、島田昌和氏の社会企業家の先駆者「渋沢栄一」より 平岡は旗本の家に生まれ、若い頃から藤田東湖や川路聖謨(としあきら)に評価されて推薦を受け、一橋慶喜に仕えた身であった。そのような境遇にあったこともあって渋沢らを評価していたようであり、軽輩から始める覚悟があれば、と誘いの手を差し伸べてくれた。 当時の一橋慶喜は朝廷から参預に取り立てられるなど独自の政治的立場にあったとはいえ、徳川家に連なる家柄であり、喜作と二人でその話を受けるべきか相当に悩んでいる。 しかしながら自らに降りかかる嫌疑から逃れ、獄につながれた長七郎を救出するためには武士身分となることが必要と考え、同時に攘夷の直接行動の無謀さもわかってきており、現実的な選択としてこれを受け入れることに決めている。 栄一は一橋家の家臣になることを自らに納得させる理屈付けとして、一橋慶喜が尊皇の家である水戸家の出であり、朝廷より禁裏御守衛に任じられていることから、今後も幕府本体とは離れた対応を求め、そのための実力ある人材の登用を進言するなどしている。 栄一の仕官は軽輩から始まったが、すぐに一橋家の対外折衝を担う「御用談所」で働く「下役」に取り立てられる。薩摩藩の動向を探るために幕府から摂海防御砲台築造御用掛に任じられた同藩の折田要蔵に弟子入りして、その内情を探る任務についたりもしている。 当時の一橋家の家臣団は、家老は幕府内で大目付や奉行を務めた人間がその後に転じてきており、お飾り的な存在であった。 江戸と京都に三人ずつ配された用人が実質的な政務執行者であった。 京都には老齢の成田藤次郎と幕府の目付から転じてきた黒川嘉兵衛がいたが、平岡が秀でていた。 平岡はこれに先立つ将軍継嗣問題でも越前の橋本左内らと連絡を取り、慶喜の擁立に尽力したが敗れて左遷された。 しかし、一八六二年の慶喜の将軍後見職就任後に一橋家に復帰し用人となった。 慶喜上洛後、側用人番頭、家老と駆け上がり、慶喜の政治活動の実働部隊の一人であった。 渋沢はこの平岡に見出され、その手足となって働き、農民出にもかかわらず一橋家内で急速な出世をしていった。 平岡から次に与えられた職務は関東に下って一橋家に有用な人材を発掘してくる「関東人選御用」であった。 渋沢は千葉道場の塾生等を頼りにしていたが、水戸の天狗党の乱等に加わって四散しており叶わなかった。 それでも五〇人近くを一橋領内から京に連れ帰っている。 上記は島田昌和氏の社会企業家の先駆者「渋沢栄一」より引用いたしました。 渋沢栄一が生まれ育った環境によって身に付けた教育、体験を平岡円四郎は見込んだということかも知れませんが一橋慶喜が政治的な立場を強化していくとともに人材を求めたことが渋沢にとっては、その才覚を活かせるキッカケとなったように思われます。 今日は以上です。 汚名を着て国を救う 樅の木は残った
2012年05月15日(火)
現代日本の情況を考える上で山本周五郎が伊達騒動を主題にした「樅の木は残った」の主人公、原田甲斐を取り上げて政治に翻弄される武士の姿から現代に思いを巡らせた日経新聞、日曜日に連載されている宗教学者の山折哲雄氏の「危機と日本人」を紹介・引用いたします。 ドラッカー 「イノベーションと企業家精神」日本語版への序文から 成功に対する疑問
2012年05月14日(月)
1985年に書かれたドラッカーの「イノベーションと企業家精神」日本語版への序文の前半部分を前回5月7日に紹介・引用いたしましたが前半部分に続いて後半部分で高齢者問題と社会的な問題について言及されていることを現在時点から見ていくことも日本の産業社会を考える上で参考になると思います。
以下、ピーター・F・ドラッカー「イノベーションと企業家精神」日本語版への序文(一部抜粋)より 日本のみならず、すべての先進国が直面している問題として、伝統的な退職年齢を超える高齢者人口が、あらゆる世代のなかで最も急激に増大しつつあり、近いうちに最大の年齢層となることが確定しているという人口構成の現実に対して、年齢に対する概念をどのように適応させていくべきであろうか。 高齢者が退職を望むにせよ、あるいは望まないにせよ、彼らを無為の状態においたまま扶養できるだけの経済力をもつ社会というものは、いったいありうるであろうか。 これらはすべて、日本の読者諸賢におかれては、熟知しておられる問題である。 しかも他の先進国に先がけて、日本が対策を講じはじめている問題である。 しかし、それでもなおかつ、これらの問題は、日本に対して、社会概念と社会政策のあり方について再考を迫っている。 明治時代に実現した社会的イノベーションほどには革新的たりえないかもしれないが、とにかく今、日本は社会的イノベーションを強く要求されているのである。 日本において、この社会的なイノベーションに対する最大の障害となっているものは、かつてのイノベーションの時代とは異なり、今日の日本人が当然のこととはいえ、自らの成功を自らの実感として感じとってしまっているという現実である。 成功に対して疑問を投げかけるほど難しいことはない。 しかし日本は、教育、医療、地方自治、労使関係、雇用慣行等、その他あらゆる社会的領域において、自らの成功に対して疑問を投げかけるべきときにきている。 とくに日本の場合は、問題に対する解答として用意してあるものは、一〇〇年前の問題に対する解答であって、今日の問題に対するものではない。 イノベーションと企業家精神に関する議論のほとんどは、ベンチャービジネス、つまり新しく小さな企業に焦点をあてている。 だが、イノベーションと企業家精神は、ベンチャーだけの問題ではない。 既存の大企業にとっても、企業家としてイノベーションの担い手となることは、絶対に必要なことである。 一〇〇年前には、このような問題は存在しなかった。 そもそも既存の企業の数など、あまり多くなかったからである。 日本の場合には、ほとんどなかったといってよい。 四〇年近く前にも、この問題はさほど大きくはなかった。 当時、とくに日本では、既存の企業は混乱の極にあり、それまでの経営陣は崩壊してしまっていた。 社名こそ由緒あるものであったが、すべての企業がベンチャービジネスのようなものであった。 しかし今日においては、企業家としてイノベーションを行うことの必要について、大企業から中小企業にいたるまで、既存の企業すべてに対して、声を大にして訴えなければならない。 いかにして企業家たるべきかは、明らかである。 イノベーションの方法も明らかである。 とくに日本の場合、実例は豊富にある。 上記はピーター・F・ドラッカー「イノベーションと企業家精神」日本語版への序文(一部抜粋)より引用いたしました。 日本が自らの成功体験に対して、あらゆる社会的領域において、「自らの成功に対して疑問を投げかけるべきときにきている」という指摘に対し、その後の日本は自らの成功体験を否定し社会的イノベーションをなし得たのでしょうか。 1985年当時のドラッカーの指摘に対応した社会的イノベーションの不在が日本の長期低迷理由の一つかも知れませんね。 次回もイノベーションを考えていく予定です。 今日は以上です。 PR: FXのマネーパートナーズ
2012年05月13日(日)
昭和維新への思想潮流としての三月事件、十月事件に対する見方
2012年05月13日(日)
昭和維新としての二・二六事件につながる最初の事件として三月事件や十月事件があり、その中心的人物である橋本欣五郎中佐の考え方を葦津珍彦氏の「武士道(戦闘者の精神)」から前回5月6日の続きで思想的な対立と潮流を見ていきたいと思います。 昭和の戦争 親独感情
2012年05月12日(土)
昭和十年前後当時、英米に対する感情と比べて特にドイツを見る目の親近感と期待が強かったように思われますが、この辺りの様子を半藤一利氏の「昭和史1926―1945」から前回5月5日の続きで見ていきます。 気付きと事業イメージ 「可視化」と“外知恵”
2012年05月11日(金)
社会の変化におけるソーシャルな一面として「可視化」ということに前回5月4日のブログで触れましたが今回は、何が「可視化」されるのか、ということについて考えてみようと思います。
インターネットがより進化した状態と言えるソーシャルによって「つながり」というものがより意識されるようになり、そして「つながり」から共感・共有というスタイルが生まれ定着しつつあります。 共感し共有することが出来るのは、「可視化」という仕組みが機能しているように思います。 それでは「可視化」されるものとは何があるのでしょうか、可視化されることによって変わる価値観に気付くことこそが時代の変化に対応した事業イメージにつながるものと言えるのではないでしょうか。 どんなものが「可視化」されるのか、ということで考えていくと一番わかりやすいケースとしては口コミということになりますが基本的には「人」そのものであり商品やサービスの評価を共感というフィルターを通して体験を共有する「つながり」が今の時代の口コミということだと思います。 ただ、「可視化」されることで最も大きな変化をもたらすものは「知恵」ではないでしょうか、「知恵」に対する評価や共感という行動が人やモノの新たなマッチングを促し変化に対応した価値観(共生・共創)を生み出していくものと思います。 そして、この「知恵」を活かす考え方が“外知恵”であると考えています。 “多くの人による現状をより良くするための創意工夫であり、そのための多様多岐に亘るモノの見方・考え方” 現状の生活観からの課題を解決するため考え方を具体化した知恵であると捉えています。 この手段としての知恵を「可視化」することで生活者目線での問題提起により今までの企業と消費者という考え方が変わっていくように思われてなりません、本来の意味におけるソーシャル・ビジネスというものをイノベーションする可能性を秘めているのが知恵の「可視化」というものであり外知恵の考え方であると思っています。 次回は生活者目線での問題提起ということで進めていきます。 今日は以上です。 |
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