近衛霞山、東亜保全の理想
明治期において欧化主義的な考え方の一方、ヨーロッパ列強の侵略に対抗するための興亜主義という見識を立てたのが近衛霞山でした。
前回
、に続いて葦津珍彦氏の「武士道(戦闘者の精神)」からみていきます。
以下、葦津珍彦氏の「武士道(戦闘者の精神)」より
日露戦争への道は、日清戦後の三国干渉いらいの国民感情が主流となって、政府や軍をひきずっていったのが真相である。
外交政策の最高権威だった元老伊藤博文は、最後までロシアとの妥協政策への執念を固執した。
軍の最高権威山県有朋でも、桂太郎でも、確たる見識を立てかねて躊躇を禁じえなかった。
この間にあって、近衛霞山は、清国、韓国と提携して、東亜の保全を大目標に強大な連合協力態勢をつくって、ロシアの南下侵略政策に、断固として反対せねばならぬと力説して国論を指導した。
公の主張は、東亜の連合によって、ヨーロッパの侵略に対抗するにある。
そこで東亜同文会などを組織し、シナの朝野の識者とも深く交わって、意思の疎通に努力した。
東京にシナの留学生を招き、南京(のちに上海)に同文書院をつくって、多くの日本人学生にシナ事情の研究をさせた。
その志は遠大で、根が深い。
霞山の日誌によれば、山県・近衛会談で、外交政策が討議されたことが詳しく書かれている。
それによれば、山県は、しきりに日本が「英国と結ぶかロシアと提携するかを決めることが根本だ」というのに対し、近衛は、「根本は清韓を援けて積極的に進むか、退くかにある。英と結ぶかロシアと妥協するかの如きは、その根本方針を定めた上での手段にすぎない」というのである。
山県は、のちに日英同盟論者となり、ロシアに対抗することになるのだけれども、近衛霞山の東亜保全の思想とは、その本質がちがっている。
かれは、山県に維新当時の青年志士山県狂介の理想・見識なきを見て、「嗚呼(ああ)当年の狂介も老いたりと云ふべし」と明記している。
この山県・近衛会談の記録は、政治思想史のうえから見ても興味深い。
近衛の方では、清韓援助、東亜保全が根本で(いわゆる大アジア主義的な理想が根底にあって)、日露戦争へと進んでいくのだが、山県の方では、ただ英国とロシアとの二大列強を比較検討して、英国と結びロシアに対抗した方が、日本の独立にとってより有利だと判断しただけで、その根本に東亜保全というような遠大な理想がない。
東洋の解放、東亜大陸の経綸に熱意を燃やした在野の志士たちが、近衛霞山に期待をかけたのは自然であったし、またその人物は、在野の志士を信頼させるにたる剛直な責任感を有する人であった。
上記は葦津珍彦氏の「武士道(戦闘者の精神)」より引用いたしました。
東亜保全という理想を掲げた近衛霞山と明治の元老として現実主義者の山県有朋の会談は外交政策の理想と現実という点において興味深いものがありますね。
今日は以上です。
