近衛霞山、東亜保全の理想

2012年02月12日(日)

明治期において欧化主義的な考え方の一方、ヨーロッパ列強の侵略に対抗するための興亜主義という見識を立てたのが近衛霞山でした。

前回 、に続いて葦津珍彦氏の「武士道(戦闘者の精神)」からみていきます。


以下、葦津珍彦氏の「武士道(戦闘者の精神)」より


日露戦争への道は、日清戦後の三国干渉いらいの国民感情が主流となって、政府や軍をひきずっていったのが真相である。

外交政策の最高権威だった元老伊藤博文は、最後までロシアとの妥協政策への執念を固執した。

軍の最高権威山県有朋でも、桂太郎でも、確たる見識を立てかねて躊躇を禁じえなかった。


この間にあって、近衛霞山は、清国、韓国と提携して、東亜の保全を大目標に強大な連合協力態勢をつくって、ロシアの南下侵略政策に、断固として反対せねばならぬと力説して国論を指導した。


公の主張は、東亜の連合によって、ヨーロッパの侵略に対抗するにある。

そこで東亜同文会などを組織し、シナの朝野の識者とも深く交わって、意思の疎通に努力した。

東京にシナの留学生を招き、南京(のちに上海)に同文書院をつくって、多くの日本人学生にシナ事情の研究をさせた。

その志は遠大で、根が深い。


霞山の日誌によれば、山県・近衛会談で、外交政策が討議されたことが詳しく書かれている。

それによれば、山県は、しきりに日本が「英国と結ぶかロシアと提携するかを決めることが根本だ」というのに対し、近衛は、「根本は清韓を援けて積極的に進むか、退くかにある。英と結ぶかロシアと妥協するかの如きは、その根本方針を定めた上での手段にすぎない」というのである。


山県は、のちに日英同盟論者となり、ロシアに対抗することになるのだけれども、近衛霞山の東亜保全の思想とは、その本質がちがっている。

かれは、山県に維新当時の青年志士山県狂介の理想・見識なきを見て、「嗚呼(ああ)当年の狂介も老いたりと云ふべし」と明記している。


この山県・近衛会談の記録は、政治思想史のうえから見ても興味深い。

近衛の方では、清韓援助、東亜保全が根本で(いわゆる大アジア主義的な理想が根底にあって)、日露戦争へと進んでいくのだが、山県の方では、ただ英国とロシアとの二大列強を比較検討して、英国と結びロシアに対抗した方が、日本の独立にとってより有利だと判断しただけで、その根本に東亜保全というような遠大な理想がない。


東洋の解放、東亜大陸の経綸に熱意を燃やした在野の志士たちが、近衛霞山に期待をかけたのは自然であったし、またその人物は、在野の志士を信頼させるにたる剛直な責任感を有する人であった。


上記は葦津珍彦氏の「武士道(戦闘者の精神)」より引用いたしました。


東亜保全という理想を掲げた近衛霞山と明治の元老として現実主義者の山県有朋の会談は外交政策の理想と現実という点において興味深いものがありますね。


今日は以上です。





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昭和の戦争 「スターリンのごとく」

2012年02月11日(土)

国家総動員法をめぐり日本の進むべき道はどうあるべきか昭和十三年当時の日本において議会においてはどんな議論がされていたのか、を今日は見ていくことといたします。

それでは、いつもの様に半藤一利氏の「昭和史1926―1945」から前回2月4日 続いて見ていきます。


以下、半藤一利氏の「昭和史1926―1945」より


このような笑いたくなるような事件を含みながら、政友会も民政党も懸命に、なんとか少しでも法案に制限を加えようと頑張っていたのですが、なんと左翼がこの法案に大賛成でした。


当時、唯一の革新政党ともいえる社会大衆党は、何度も賛成論をぶったのです。

現代から眺めれば、左翼勢力は階級闘争を通じて資本主義を改革ないし打倒しようと考えているわけですから、こうやって国家社会主義的な議論を押し立ててゆけば資本主義打倒も可能なのではないかという思惑ががあったためでしょう。

矛盾したややこしい理屈ですが、つまりはそれが革新に通じるとでも錯覚したのでしょうね。

そこでもう一つの事件が起きたのです。


三月十六日、この国家総動員法案が通過成立する当日ですが、社会大衆党の雄弁家をもってなる西尾末広代議士が登壇して大演説をしました。

ちょっと面白いので引用します。


「……さる三月十四日は、五箇条の御誓文の七十年目にあたるのであります。

『わが国は未曾有の変革をなさんとし』と御誓文の冒頭に仰(おお)せられているのであります。

まことにしかり、今日においても、わが国は未曾有の変革をなさんとしている。

御誓文のなかには『旧来の陋習(ろうしゅう)を破り、天地の公道にもとづくべし』

こういうご趣旨もうたわれているのでありまして、この精神を近衛首相はしっかりと把握いたされまして、もっと大胆率直に、日本の進むべき道はこれであると、ヒトラーのごとく、ムッソリーニのごとく、あるいはスターリンのごとく、大胆に日本の進むべき道を進むべきであろうと思うのであります。

今日わが国の求めているのは、確信にみちた政治の指導者であります」


とこうやったんですねえ。


「ヒトラーのごとく、ムッソリーニのごとく」辺りまではまだいいものの―もちろん日本は独裁政権ではありませんからヒトラーだってとんでもないのですが―最後に「スターリンのごとく」ときた瞬間、議場はひっくり返ってしまいました。

怒った民政党と政友会からは「一体何を考えているのか」とガンガン野次が飛ぶのですが、西尾さんは屁でもありません。


「いまや世界は個人主義より相互主義へ、自由主義より統制主義へと進展しつつある」

「歴史的使命を果たすために、いまや躍進しつつある日本にとっては、国防の充実が絶対に必要である」

「労働者は労働をもって国に報じ、財力のある者は財力をもって国に報ずるとの愛国心の具体的表現と、これを組織化し、総動員法によらざれば、今後の戦争に勝利を博(はく)することはできない」と最後まで続けました。


そして席に戻り、周りがわんわんいっているのを見てようやく自分の演説が大問題になっていることに気付くのです。


そこで弁明のために再登壇し、「ヒトラーのごとく、ムッソリーニのごとく、あるいはスターリンのごとく」のくだりをすべて削除したいと申し出たのですが、政友会と民政党の議員は承服せず、議会は大混乱のうちに、やむなく議長が西尾議員を懲罰することで収拾しました。


ところがまた面白いことに、西尾議員が懸命に弁明しているにもかかわらず、なかにはこれに賛成する人もいたのです。

尾崎行雄(咢堂がくどう)が西尾議員の後に登壇し、

「そこで私も言おう。

近衛首相は自信をもって、ヒトラーのごとく、ムッソリーニのごとく、あるいはスターリンのごとく、大胆に日本の進むべき道を国民に示して指導せられたい。

……西尾君はこの言葉を取り消したが、私は取り消さない。

西尾君を除名する前に、私を除名せよ」と応援演説したのです。


今からみると、これほどの国家の大事を決めるのに何をやっているんだという感じがしないでもない。

結果的には西尾代議士だけが除名されました。


そんな騒ぎを経て、この三月十七日に法案は通過してしまいました。

「国家総動員法」ができていよいよ、いろんな手続きを踏みつつ日本の軍国主義化は進んでゆきます。


上記は半藤一利氏の「昭和史1926―1945」より引用いたしました。


ヒトラー、ムッソリーニ、スターリンといえば独裁者でありますが、当時はある意味で英雄の様に見えたのかも知れませんが国家の方向性について本質的議論がなされていないこと自体がリーダーシップの欠如を物語っているように思われます。


今日は以上です。



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シニア起業 起点としての「場」

2012年02月10日(金)

少子高齢化ということからシニアビジネスというものにスポットが当てられるようになりましたがシニア・団塊世代のライフステージのニーズをどれだけ取り込むことが出来るのか、に関わっていると思います。


シニア・団塊世代のライフステージについては大きな変化として定年退職があり、この退職を機にその生活スタイルの変化によって異なったものになるのは言うまでもありませんが、そのニーズに共通しているのは従来のライフステージとの区切りという点では同じ生活観を有しているのではないでしょうか。


こういう意味からもシニア・団塊世代の生活観という大きな括り方をすることが必要である様に感じています、シニア・団塊世代が出会えてお互いの生活観を語り合える「場」があれば具体的な声を引き出せることにつながると思います。


例えば一番分かりやすいケースではシニア商品やサービスに対するシニアモニターということになりますがシニアビジネスということだけでなく幅広い意味での生涯学習という「場」をベースにすることで、いろんな付加価値をつけていくことは今後の生活の上で大きな意味があると想われます。


ただ、生涯学習と言っても従来のカルチャーセンターというものではなく企業主催のセミナーや講演会といったものがシニア・団塊世代の「場」という様に私は考えています。


企業主催の講演会って無料で結構いろいろとあるようですが案外と一般的には知られていないのが実情ですが私も以前に日経新聞のセミナー(無料)に行ってみましたが内容的には満足出来るものでした。

ただ主催者の思惑は新聞購読者を増やすことを目的にしていましたが私はやり方によってはもっと主催者の利益につなげる方法がある様に感じました。

(主催者の思惑と講演内容や来場者によって多様な方法があります)


この様な「場」が企業によって用意されていることシニア・団塊世代が付加価値を身に付ける「場」結びつけて行けば自ずとシニア起業の起点になる様に考えています。

次回はシニア起業のカタチとしての結論を予定しています。


今日は以上です。





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問題解決 ブログテーマをつなげる戦略

2012年02月09日(木)

問題解決として、このブログを更新する意味とは何なのか、ということを改めて問い直してみることにしました。


毎日更新していながらブログの目的に沿った記事が書けているのか、と言うと曖昧なまま現在に至っていますがブログ目的は言うまでもなく新たな事業イメージこのブログから生み出すことが出来るか、という実験的な取り組みから始めました


ただ、当初の思いは日々の記事更新を優先するなかで目的と記事のズレが徐々に生じて来ました、そこで前回2月2日 にも書いていますがブログ「何を書きたいのか」をもう一度考えてみました。


このブログは現在、曜日毎にテーマを決めて書いていますが曜日毎のテーマに一貫したつながりが求められます、しかし、この辺りのテーマ間のつながりという要件が抜け落ちていることが私のブログが曖昧で何を書きたいのか、よく分からないものにしているのではと感じています。


このブログを毎回読んで頂いている方は既にお解かりの事と思いますが、現在のテーマを月曜日はイノベーション、火曜日はフリー、水曜日は日本産業史、木曜日は問題解決、金曜日は外知恵活用をカタチにということで現在はシニア起業について、土曜日は昭和の戦争、日曜日は武士道ということで書いています。


私の中では月曜日から日曜日までのテーマに違和感はありませんが読者の方から見れば特に日曜日の武士道や土曜日の昭和の戦争というテーマとブログ目的がどの様につながるのか、疑問に思われるのも当然かも知れません。


ブログに何を書きたいのか、ということを考えてみますと各曜日のテーマをつなげる記事が必要になると感じています、ブログのゴールイメージとしての目標を達成するために何をすべきか、ということから「戦略」について取り上げていこうと思います。


「戦略」を深堀することでテーマをつなげることが出来ればブログ目的の事業イメージを生み出すことが出来ると考えています。

当面は火曜日のフリーの日に「戦略」について書いていきたいと思います。


今日は以上です。





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近代産業の展開 官営紡績工場の設立や万国博への参加など

2012年02月08日(水)

明治新政府による産業基盤育成のため鉄道の敷設や郵便制度を確立し鉱工業の経営とともに輸出振興策として繊維工業に力を注ぎ官営の工場を設立しています。


前回2月1日 続いて明治新政府における近代産業の展開を日本産業史より見ていきます。


以下、日本産業史“近代産業の展開”より


官営の紡績工場


明治六年五月、大久保利通は欧米巡回の旅から帰朝したが、その後、内務卿として五年半にわたり殖産興業政策の遂行に全力を傾注した。

彼はまず、海運ではさきに述べたように三菱会社を厚く保護して近代海運の発達を促す方策を推進するとともに、貿易においては直輸出政策を企画、実行し、貿易商社の発達を奨励した。


また内務省の事業として、貿易に関係の深い繊維工業について、近代的な生産設備を持つ模範工場を設立して民間に範を示した。

たとえば上州富岡(群馬)に開いた富岡製糸場はわが国機械製糸の発達に大きく貢献したし、ついで同じく上州新町新町屑(くず)糸紡績所も設けられた(明治十年)。


綿糸紡績業では、明治五年、薩摩藩から堺紡績所(大阪)を引き継いで官営模範工場とし、同十一年、マンチェスターから錘数二〇〇〇錘の紡績機を二組輸入して、愛知と広島にそれぞれ官営紡績所を設置することとしたのに続き、翌十二年には同じ型の紡績機をさらに一〇組輸入して全国一〇ヵ所の紡績所に無利息、一〇年賦で払い下げた。

また毛織物についても同じ年、官営の千住製絨所(せいじゅうしょ)を開いている。


万国博にも参加


政府が行なった振興のいま一つの重要策に博覧会、共進会の開催がある。

政府は明治六年のウィーン万国博覧会をはじめ多くの海外博覧会に参加して、近代産業技術の導入に努める一方、国内では十年と十四年にそれぞれ官設の内国勧業博覧会を開いて、勧業上、大きな効果をあげた。

また十三年には綿糖共進会を開催し、当時輸入品の圧迫下にあった綿・糖二業の発達を図っている。


このように明治新政府は全力をあげて近代産業の移植育成に努力した。

その中には政府の強化と強兵を直接のねらいとしたものもあったが、それらを含めて政府の政策が民間における産業の発達に大きな影響を与え、それを助成したことは確かである。


上記は日本産業史“近代産業の展開”より引用いたしました。


明治新政府において富国強兵、殖産興業ということを誰よりも認識していた人物が大久保利通であったと思います、それだけに自ら内務省をつくってその遂行を目指すことになるわけですが現在の官僚の基礎は彼が築いたものでもあり大久保への権力集中は有司専制の批判を受けました。


また、三菱の岩崎弥太郎は後藤象二郎を介して大久保利通や大隈重信の知遇を得たたされています。


今日は以上です。









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2012年02月07日(火)
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米フェイスブック上場申請

2012年02月07日(火)

毎週、火曜日はテーマを決めずに私自身が気になったことを書くようにしていますが思ったことや気になったことって文章にまとめるのは難しいものですね。

そこで今回はフェイスブックの上場申請について2月3日に日経新聞に掲載された記事を紹介・引用いたします。


以下、2月3日に日経新聞より


交流サイト(SNS)最大手の米フェイスブックが株式上場へ歩み始めた。

大量の資金と人材の獲得を視野に1日に申請書類を米証券取引委員会(SEC)に提出。

そこに付けた共同創業者マーク・ザッカーバーグ最高経営責任者(CEO、27)の書簡には、インターネット上の情報共有というビジネスモデルで急成長した同社の強みと課題が浮かび上がる。


「我々が情報の共有手段を提供したことで、人々はかってない規模で声を届けられる」


フェイスブックは2011年、北アフリカなどの反政府デモで情報共有の手段に使われ、急速に存在感を高めた。

同社は「世界をより開かれたものにして人びととの結びつきを強める」ことを社是とする。


だが、こうした姿勢が中国など一部の国・地域で当局の反発を買い、規制を探る動きも表面化しつつある。

世界で8億人を超す利用者のうち、現在は北米が1億8000万人近くを占めるが、一層の成長を遂げるには、海外の広がりが不可欠。

各国・地域の事情とどう折り合いを付けていくかが問われることになる。


「世界人口の過半がネットや携帯電話を使い、コミュニケーションは新たな転換点を迎えた」


フェイスブックへの写真投稿は1日2億5000万枚に上る。

これを支えるのはスマートフォン(高機能携帯電話=スマホ)など携帯できるネット接続機器の普及。

同社も対応に注力し、4億2500万人がスマホ経由で使う。

だがスマホ時代をにらむ他社の新サービスが相次ぎ、強敵となる可能性もある。

先行する強みを維持できるかも課題だ。


「サービスを提供するために稼いでいる」


書簡は事業理念としてサービスの提供が主で利益は「従」という考え方を強調した。

上場後も経営陣が主導権を握れるよう、ザッカーバーグ氏らに通常の株式の10倍の議決権のある種類株を割り当てるなど対策を取っている。

それでも今後は投資家から短期的な利益を求める声が高まるのは確実とみられる。

サービス重視の長期的な視野に立った投資と四半期ごとの収益のバランスを取ることが必要となる。


「陳情のうまい人や大人数を率いる人でなく、最も優れたアイデアが評価されるべきだ」


フェイスブックは社員を年5割のペースで増やし、3000人を突破した。

社内ではなお「人不足」の声が強く、上場に際し50億j(約3800億円)規模を調達して採用を強化する見込みだ。

ザッカーバーグ氏は繰り返し官僚主義や大企業病を戒めるが、企業規模の急拡大は弊害も生みがち。

成長と活力低下の回避を両立できるかどうかが今後のカギとなる。


上記は2月3日に日経新聞より引用いたしました。


フェイスブックが他のSNSやネットサービスとの差別化をどう展開していくか、興味深いところですが情報共有手段を超える進化に注目したいですね。


今日は以上です。






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イノベーション ディーゼルエンジン 自動車以外で道切り開く

2012年02月06日(月)

毎週月曜日はイノベーションというテーマで日経新聞の記事を紹介・引用していますが新たな「気付き」が得られれば幸いです。

それでは2月5日の日経新聞イノベーションを前回 続き紹介・引用いたします。


以下、2月5日の日経新聞イノベーションより


イノベーション  ここを攻めろ C


1月24日、ヤンマーが神戸市で開いた創業100周年式典。

顧客や幹部社員ら約2500人を前に山岡健人社長は「ディーゼルエンジンとの出会いが初代の運命を変えた。何とか小型化すべく開発に挑んだ結果、1933年に世界で最初に小型エンジンの実用化に成功した」と語った。


高い環境性能で注目を浴びる同エンジンは1892年、ドイツのルドルフ・ディーゼル博士が発明した。

ガソリンエンジンよりも熱効率が高く、二酸化炭素(CO)排出量は少ない。

軽油、重油などが使え燃料代も安い。


農・産業機械に実用


1932年に初めて実用化したのは独MAN社だが、これは4dトラック用だった。

世界初の小型ディーゼルを実用化し、農業機械や産業機械に使えるようにしたのが山岡社長の祖父で創業者の山岡孫吉氏。

長寿CM「ヤン坊マー坊天気予報」で誇らしげに「小さなものから大きなものまで/動かす力だヤンマーディーゼル」と歌っているのはこの経緯があるからだ。


「2010年のディーゼルエンジン生産台数で1〜6位は仏プジョーシトロエングループ(PSA)、伊フィアットなど自動車会社が占めた。

うちは7位だが、クルマを除く産業用では首位」とクボタの佐々木真冶エンジン事業部長は話す。

自動車用に比べて産業用は頑丈で連続運転に強い。

「ポンプや発電機の駆動はクルマでいえば坂道を何日も上り続けるようなもの。高付加の仕事なら自動車用に絶対負けない」と言い切る。


同社は粒子状物質(PM)を現行の第3次規制に比べて95%以上減らす第4次排ガス規制(今年発効)を満たし、昨年7月1日、米カリフォルニア州大気資源局の認証を得た。

排気量4g以下のエンジンとしては世界初。

燃料の多段階・高圧噴射や電子制御、PMをこしとるフィルターを組み合わせた。

目詰まりする前に燃焼温度を上げてPMを燃やし尽くすフィルターの自動再生機能が売り物だ。


オイルタンカーやコンテナ船用のエンジンはMAN社が設計した低速ディーゼルが世界市場の7割を占める。

実際に製造するのはライセンス供与を受けたアジアの企業が多い。

基本設計通り忠実に製造する韓国・中国勢に対し、日本勢は燃費向上や排ガス浄化の機構を独自開発し、付加価値を高めてきた。


「低速」に独自機構


国際海事機関(IMO)は船舶が出す窒素酸化物(NOX)への規制を段階的に強化している。

通常の浄化装置ではエンジンから出て過給器を回した後の排ガスを処理する。

ところが低速ディーゼルはもともと熱効率が高いために排ガスの温度が低く、浄化装置の触媒が性能を十分発揮できない難点があった。


日立造船は尿素水と触媒でNOXを水と窒素に分解する処理装置を過給器の手前に設置した。

「高温・高圧の排ガスが使えて触媒の性能が高まり、装置も小型化できた」と中尾徹主席技師。

IMOが定める第3次規制に世界で初めて対応したこのエンジンを積んだばら積み貨物船が実証試験に入っており、データを収集中だ。

「カナダのバンクーバー港からは入港すれば港湾使用料を割り引くと申し出があった」ほど注目度は高い。


同じMAN社の設計に基づくにもかかわらず三井造船の低速ディーゼルは他社製よりも値段が高い。

それでも船主から指名買いが入るのは、運航コストやトラブルの少なさで定評があり、中古船で売る時に高値が付くからだ。

「最近は過給器の性能が上がり、エンジンに空気を送り込むだけでなく、パワーの一部を油圧に回す余裕ができた」と田中一郎機械工場技術開発部長は話す。

油圧を回転力にかえる油圧モーターで、エンジンをアシストする機構を開発。

実証試験では2〜4%の省エネ効果を得た。


欧州では乗用車販売の5割以上をディーゼル車が占め、技術面でも欧州勢が優勢だ。

しかし日本勢は産業用や舶用などの分野で存在感を示す。

カギは環境対策にある。

                                    (編集委員  竹田忍)


上記は2月5日の日経新聞イノベーションより引用いたしました。


環境対策や省エネ効果でディーゼルエンジンの付加価値が見直されることで新たな事業展開がイノベーションにつながることを期待したいと思います。


今日は以上です。





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霞山近衛篤麿公

2012年02月05日(日)

今日は貴族でありながら在野の志士たちとともに東亜保全、興亜という考えを示した近衛篤麿という人物を葦津珍彦氏の「武士道(戦闘者の精神)」から見ていきます。


以下、葦津珍彦氏の「武士道(戦闘者の精神)」より


明治時代の日本人の中には、洋風の文明開化に熱心なる潮流があるとともに、ヨーロッパの列強帝国主義に対抗して、東亜の保全、東洋の解放のために敢闘せねばならないとする大きな精神的潮流があった。


それは主として大陸浪人とか、在野の民党政治家の間に有力であって、支配体制の側の藩閥政治家、貴族、学者の主流等には、概して欧化主義的潮流がいちじるしかったと見ていいだろう。

しかしその間には、もとより例外もあり、公式的には割りきれない。


近衛霞山公などは貴族の中でも本格的に洋行留学で勉強した人であるが、卓然たる東亜保全、興亜の志をもって終始した英才であった。

かれが、多年の宿願たる洋行を許されて渡航するとき、時あたかも清仏戦争が戦われており、澎湖島に寄港したときに、同地はフランス軍の占領した直後で、フランス国旗が所々に掲げられているのを見た。


かれは、そのときの手録に、すでに東亜保全の緊急なるを痛感したことを明記している。

かれは、この初洋行にさいしては、先輩西園寺公望が全権公使として派遣されるのに同行したのであるが、同船同行しても、その心中の感想にはおのずからに異なるものがあった。


霞山近衛篤麿公は、明治日本の貴族の中で、もっとも貴族らしい大人物だったと称しうるだろう。

霞山公は、東亜問題、対露政策などについて、偉大な足跡を残したが、少壮四十一歳で早世したので、その政治生命は短かったし、その長子文麿(あやまろ)公が、たびたび首相となって昭和史上に有名になったほどには、一般的に知られていない。


昭和の貴族宰相文麿は、現代インテリらしい弱さをまぬかれなかった。

しかしその父霞山篤麿は、その青年時代、長いヨーロッパ留学で成長した人ではあったが、骨の太い豪勇の人だったらしい。

その豪気さを語るエピソードは少なくないが、近衛秀麿(音楽家)が、その随筆集『風説夜話』の中でつぎのような話を書いている。


霞山公は、在野の頭山満、中江兆民、佐々友房、神鞭知常や有名な七博士等と結んで、対露主戦論を力説しており、貴族院の重鎮として、政府、軍との重要な談判をつづけていたが、開戦の直前に病没した。


十数回にわたる全身の手術をしたが、麻酔剤を使用すると、不覚の間に、国家や同志の極秘の機密を洩らすおそれがあるというので、断固としてその使用を拒否した。

これでは外科の大手術の執刀はできない。

そこで公は、日ごろからひいきにしていた当時の両横綱梅ヶ谷と常陸山(ひたちやま)の二人に、満身の力をこめて身動きできぬようにおさえさせて、手術をさせた。

このような無理強引なことをしたので心臓が弱まり、ついに四十一歳の若さで没したという。


たしかに日露開戦直前の霞山公は、朝野のあらゆる機密情報の中枢に立つ人ではあった。

だがそれにしても、このような手術をみずからさせるということは、割腹するよりもはるかに激しい苦痛であるにちがいない。

私は、この伝説的なエピソードを通じて、霞山公に対する在野有志者の深い信望の理由がわかったような気がした。


上記は葦津珍彦氏の「武士道(戦闘者の精神)」より引用いたしました。


貴族らしからぬエピソードですが、明治という時代の気風に対する彼の気概を感じます。

今日は以上です。



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昭和の戦争 「国家総動員法」をめぐる激論

2012年02月04日(土)

昭和の戦争ということで半藤一利氏の「昭和史1926―1945」を中心に見てきていますが当時の軍部に対して議会はどうだったのでしょうか「国家総動員法」についての軍部と議会の「やりとり」半藤一利氏の「昭和史1926―1945」から前回1月28日 続いてみていきます。


以下、半藤一利氏の「昭和史1926―1945」より


これには既成政党である政友会も民政党もさすがに猛反対します。

あたりまえなんです。

たとえば条文の第四条にある、

「政府は戦時にさいし、国家総動員上必要あるときは、勅令(ちょくれい)の定むる所により×××することを得る」

この×××は文言(もんごん)が入ってないんです、ですから「一万人を徴用する」「日本製鉄を徹夜(てつや)で働かせる」など何でも入れられるのです。

つまり勅令というのは天皇の命令ですから、政府は戦争を遂行するためにはいかなることもできるのだとうたわれている、これはとんでもない話じゃないか、憲法違反だ、というわけです。


議会が開かれ、この法案をめぐって激論がはじまりました。

昭和十三年二月二十四日、最初に質問に立ったのは民政党の斎藤隆夫(さいとうたかお)代議士でした。

この人の名は後にも出てきます。


その演説の内容は、日中戦争が予想外に拡大した。

こうなると、何を措(お)いても国防を強化せねばならないのはわかる。

が、これほど広範囲にすべてを政府に委任する法律は認められない。

これは逆に言えば政府が勝手気儘(きまま)に天皇の非常大権を制限する、つまり大権干犯(たいけんかんぱん)ではないか。

憲法では国民の権利義務の制限は議会の協賛を必要とすることになっているが、この法案が通過すればそれを無視して政府があらゆることをやれることになってしまう、という反対意見でした。


それから連日のように、民政党と政友会の雄弁な代議士が次々に出て議論をふっかけます。

情けないのは近衛さんで、答えられないからでしょうが、具合が悪くなったなどといってはちょいちょい休むのですね。

そんなすったもんだの中で、有名な話が二つあります。


三月三日、総動員法の委員会でしっこく質問する人がいて、それにいちいち陸軍省軍務局員の佐藤賢了(さとうけんりょう)中佐が答えていました。

陸軍はどう考えているのか、といった端的な質問に対し、佐藤中佐は長々と何度も同じような答弁をするのです。


それにいらだった政友会の宮脇長吉(みやわきちょうきち)代議士――紀行作家として有名で最近亡くなった宮脇俊三(しゅんぞう)さんの父親です――が「長過ぎる!」「いい加減にしろ!」などと野次(やじ)を盛んに飛ばすと、佐藤中佐がついに「黙れーッ!」とこれを一喝(いっかつ)したのです。


説明を義務とする者が代議士に向かって威嚇(いかく)するとは何事(なにごと)か、と大騒ぎになって委員会はガタガタ紛糾(ふんきゅう)し、ついに翌日、杉山(元はじめ)陸軍大臣が「心から申し訳ない」と詫(わ)びる事態になります。


これで一応は済(す)んだのですが、ただこうやって見ますと、陸軍の横暴(おうぼう)横暴とはいうものの、昭和十三年三月頃はまだ、議会の方に陸軍をへこます力があったともいえるわけです。


上記は半藤一利氏の「昭和史1926―1945」より引用いたしました。


「国家総動員法」という戦時下体制を当時の政府はどこまで考えていたのでしょうか、リーダーの条件を問われるのは当時も今も変わらないと思います。


今日は以上です。





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