以下の記事は、私が日本繊維新聞の「ニッセンアカデミー」に寄稿した物です。
イブサンローランについては、いろいろな方がいっぱい書いているので、今さらとも思ったのですが、やはりイブサンローランは私にとっては特別なデザイナーなので、書きました。
書きたいこと、噂で良ければ1冊の本が出来るほど、60年代からいろんな事を聞いてきました。でも、所詮噂は噂。書くのはあきらめました。
しかし、この埋葬の話、特にピエール・ベルジェの心境を思うと、けっこう来ます。
「イブサンローランの埋葬」
この6月1日以来、いろいろな人がイブ・サンローランについて語っているので、ここでは書かないようにしようと思ったけれど、 パリの盛大な葬儀ではなく、11日にマラケシで行われた埋葬の内容を知って書かずにはいられなくなった。
その11日の昼少し前に、マラケシの有名なバラ園−マジョレール庭園にいろいろな人たちが集まった。百人に満たない。
招待客の中には、クチュリエの50年来の相方、ピエール・ベルジェを筆頭に、クレール・シャザル(フランスで1番人気の女性ニュースキャスター)、ルノー・ドナディュドバブル(元文化大臣)、ジャック・ラング(元文化大臣)と、フランス・モード界の貢献者とも言うべき人たちも混じっていた。
この有名なバラ園に置かれる石碑の前で黙祷を捧げに行く前に、招待客は一つかみの灰を取った。このバラ園でそれをまくためである。
その灰とはイブ・サンローランの火葬された灰だ。
この有名なマジョレール庭園は、1981年に壊されて無くなるところをイブ・サンローランとピエール・ベルジェが買い取って救ったものだ。 それ以来、ここは彼ら二人の隠遁所となっていた。
ピエール・ベルジェは挨拶で言った。
「私は、パリの墓地、あるいは、どこか他の所はもの悲しくて寂しいと長い間思っていました。しかし、ここでは、毎年650000人の訪問者を迎えます。 私も、火葬されるでしょう。そして、私の灰も、このバラ園で彼の灰と同じように、彼の灰の横にまかれることを望んでいます」と。
そして、
「私は彼が、1年前から脳腫瘍に侵されていることを知っていました。やがて彼はいなくなり、私一人が取り残される事もわかっていました。やがて私はいつしか自分が孤独になると言う考えにも慣れた頃、私は足繁くここへ来るようになるだろうと思い始めていました」
装飾模様が付いた灰色の記念柱には、白い大理石のプレートが貼り付けられていて、そこにはこう記されている。
「イブ・サンローラン、フランスのクチュリエ 1936/8/1 オラン―2008/6/1 パリ」
オランはアルジェリアの町で、イブの出生地である。
多くのデザイナーと同じように、イブ・サンローランは、私にとっても特別なデザイナーである。
以前、彼の全仕事を調べていて、「イブ・サンローランがいるからもう新しくデザインしなくてもいいのではないか?」と思い、デザインするのが嫌になった時期があった。
それ程、イブ・サンローランは現代に必要なファッションの原型と言えるものをすべて、しかも完璧に作り上げていた。
しかし、その愚考を打ち砕いたのは、私がゴルチエのステュディオで仕事を始めてしばらくしたある日、ふとジャンポールが言った言葉だった。
「モードは進化しなくちゃ行けない」
当たり前の事なんだけど、その時の私には「目からウロコ」で、サンローランの呪縛が解けた。
この写真は、私の好きなイブサンローランのひとつです。確か、一緒に写っているのは、イブのお姉さんじゃなかったかな? 違っていたら、ごめんなさい。
しかし、かっこいいです!