How China sees the world.
How the world see China.
How we see Chinese,
How Chinese see our Japanese.

ますます力をつける中国、
そして中国人を無視しては、
何も語れない時代になりました。

政治や経済が迎えた時代の変化です。

でも、気持ちがなかなかそれについていけないときがあります。

これだという「解」はありません。
それだけに心中非常にフクザツで、
道を見失うときもあります。

期待と疑念。

正直、誰もがそんな気持ちを抱きながら、
中国と向き合っているのだと思います。

プロフィール

姫田小夏

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アマチュアにすそ野を広げる上海のバレエ文化  2010年03月08日(月)
アマチュアにすそ野を広げる上海のバレエ文化

上海には中国人が運営するバレエスタジオがいくつかある。
これまで職業舞踊手としてしかありえなかったバレエも、
一般市民にとってより身近な存在になりつつある。

とはいえ、日本人のようにブーム(今はピークを過ぎたが)だから、というわけではない。

ある程度、素地のある人が集まってくる。

見かけはすごいおばさん、腰まわりはだぶだぶのお肉、
だが、うまい。

見かけはズンドウのOLさん、
だが、脚はアンデオールにちゃんと開いている。

たぶん、一度は「国家」に見込まれてレッスンをした経験があるのだろう、
単に「職業舞踊手」という道が開かれなかっただけなのかもしれない。

だからみな、そこそこうまい。

けれども、なんだか、スポーツをしてるみたい。

「やみくも」って言葉がふさわしい、
やみくもに脚が上がればいい、やみくもに回転できればいい・・・
こうなってくると、バレエではないんじゃない?

老師の教え方も、老師そのものも、クラシックバレエ独特の優雅さに欠ける。
バレエというよりも武術、否、「舞術」に等しい。彼らにとってこれは「術」なのかも。

結構びびりながらも、日本人1人、なんとか食らいついてみたのだが・・・。
(下手な日本人と思われたくないと、必死でした)

90分のレッスンののち、やはり、日本人の先生は教え方がうまい、それを痛感した。

できないことの痛みがわかるからこそ、教え方も深化するわけで。

中国ではそもそもの見込みが早い“天才たち”にしかバレエは開かれてこなかった。
もともと「できない生徒」が存在しないので、教え方も進化しない。

ある程度成長が止まればあとは自己流、誰も何も教えてくれない。
だからその先の伸びはない。

上海でもバレエはアマチュアへと裾野を広げようとするなかで、
老師も生徒も単なる自己満足で終わってしまっているのが残念でならなかった・・・。

かの松山バレエ団が北京に開校した。

もちろん、アマチュアや初心者が対象だ。
ひょっとしたら彼らこそ、
ほんとうのバレエ文化を中国に移植できるのかも。
Posted at 16:04 | バレエとかいろいろ | この記事のURL
中国人バレリーノたち  2009年12月26日(土)
中国人バレリーノたち


今日は10時からのバレエのレッスンを受けに行きました。
最近は“道場破り”のごとく、いろいろお稽古場を回っています。

ブリスベンから来たバーバラ先生はRADメソッドの指導者、
久々にRADのたましいを魅せつけられました。

しきりに生徒たちに「メソッドはどちらで学んだ?英国のRAD、それともロシアのワガノワ?」と訊かれていたのが印象的でした。

私の母は意識してRADをやらせたわけではありませんでしたが、
今になっていい教育を受けさせてもらったと感謝。

レッスン後、池袋駅まで歩き、そのままジュンク堂へ。

1階に平積みされていた李小牧さんの書籍を見つけました。

歌舞伎町の案内人として知られる李さん、
この李小牧さんの存在を教えて下さったのは
私が最も敬愛する中国人Kさんです。

歌舞伎町の案内人ということだけでも、
もう十分に興味深い存在なのですが、
なんと彼は「バレエダンサー」でした!
もう眼が薔薇・・・。

いつかパドドゥをお願いしようかしら!(笑)

その後、図書館に本を返しに行った折、
偶然みつけたのが「毛沢東のバレエダンサー」。

これもまた別の中国人バレリーノが執筆した著書です。

山東省の貧困家庭に生まれた作者が
毛沢東主席夫人の江青が遣わした北京舞踏学院の審査員たちから、
厳しい審査を受けるシーンは想像どおりでした。
当時は「紅色娘子軍」などバレエのモチーフは古典ものではなく、
革命劇そのもの、バレエを通して毛沢東の革命に貢献する・・・
それが命題だったようです。

(確かに日本でも70年代、
この革命バレエが話題になったことをおぼろげに記憶しています)

だから、バレエが好きでも、あるいは好きでなくても関係ない
というわけです。

本当にバレエが好きで、好きで、
という方は少数派??


私の身近なところにも、
北京からいらした
李先生というバレエの先生がいらっしゃいますが、
彼が言っていた言葉は今でも忘れることができません。

「日本人は好きだという理由だけでバレエがやれる」

鏡の前にアンデオールで立つとき、
いまだにこの言葉がグルグルしています。
Posted at 19:03 | バレエとかいろいろ | この記事のURL
平山郁夫とオリエンタリズム  2009年12月02日(水)
平山郁夫とオリエンタリズム

平山画伯への取材を思い立ったのは06年の10月、国慶節の休みで奈良の薬師寺を訪れたのがきっかけでした。

あの玄奘三蔵院を飾る「大唐西域壁画」は画伯の仏伝シリーズの集大成でもあります。

当時、私(姫田)母は東京は五反田の、薬師寺東京別院を手伝っていました。写経を通して三蔵院建立の基金を募ることが仕事の1つでもありました。

私もまた母に連れられては座らされ、高田好胤管長の法話に耳を傾けたことを思い出します。

折しも1970年代後半、日本はシルクロードブームがわき起こり、NHK特殊の「シルクロード」や、喜多郎、ゴダイゴの曲(「モンキーマジック」、「ガンダーラ」とか)がヒットするなど、“東洋的なもの”が再評価された時代でした。

日本を含め、オリエンタルなるものに自信を回復した時代だったとも言えます。

その「自信回復」をもたらしたひとりが平山画伯でした。

日本文化とその源流を求めての画伯の旅が、
ブームの下地として存在していたことを各方面の取材を通して知りました。

私も画伯とその時代の影響を受け、その後仏教を通して「東洋」を希求。アジアを旅し、インド哲学、サンスクリット語、パーリ語をかじり、そしてついに中国にたどり着きました。

この作業は、当時(2007年)、上海で仕事をしている私にとって、原点に立ち戻るも同然の作業でした。

着想から取材に至るまで6ヶ月。一筋縄ではいかない利権(?)の世界も知りました。世間が100%彼を評価しているわけではないことも知りました。ただ、目の前に座って、語って頂いた平山画伯は誰よりも純粋に、日本国の存亡の危機を感じられていたと思います。
Posted at 21:52 | バレエとかいろいろ | この記事のURL
平山郁夫画伯の訃報を聞いて  2009年12月02日(水)
平山郁夫画伯の訃報を聞いて

平山画伯がお亡くなりになりました。

思えば私のブログも訃報が多いみたいです。
今年は大原麗子さん、村木与四郎さん、森繁久弥さんと
激動の昭和を刻んだ方がさよならしていきます。

平山画伯については、
日中国交正常化35周年記念ということで07年当時、鎌倉のご自宅をたずねたときにインタビューをさせていただきました。

そのやりとりを振り返ります。



平山郁夫画伯、中国の軌跡
広島、アジア、敦煌、平和、求道、
そして今、日本人として



ここ数年、投資額、貿易額ともに目覚しい伸びを見せる対中ビジネス。けれども、日本人と中国人の関係は、とかく金銭のみの利害関係に陥りがち。今回ご紹介する平山郁夫画伯は日中交流を文化という側面から支えてきた日本人のひとりです。グローバル化を唱えて久しい日本ですが、平山画伯のメッセージは、その日本人が中国、あるいは国際社会に受け入れられるためには何が必要かを考えさせてくれます。


−−1962年、平山画伯は初めてヨーロッパの土を踏む。ユネスコのフェローシップ奨学金を受けて渡航、そこで西洋文化と接触し圧倒された。戦後、価値観が混乱し、日本は国粋的なものの排除を余儀なくされ、自国文化への自信を喪失するが、西洋文化と対峙した平山画伯はアジアというくくりで比較しようと試みる。日本文化の源流を求め、西欧に続いてインド、中近東などオリエント一帯をくまなく歩き回った。そして最後に残った「目標」が中国だった。

平山 当時、私はアジアの国々の中でもとりわけ中国へ行きたかった、中国が一番の目標だったのです。でも、1960年代は文革もあり、なかなか中国へは渡航できませんでした。待望の中国への渡航が叶ったのは1975年6月、文革のおしまいの頃でした。このときは日本美術家代表団の一員として北京、大同、西安、上海、無錫を回り、帰国して10日も経たず、今度は日本文物美術家友好訪中団の団長として中国を訪れました。それ以降、多いときには年に6、7回、今までトータルで百数十回も現地に訪れています。私が中国との文化交流に情熱を注ぐのは、アジアのなかでも中国、朝鮮半島は日本文化の源流にほかならないという認識があるからです。

日本へ仏教が伝来したのは538年、中国は五胡十六国時代ですが、その後隋が統一されると日本は遣隋使を派遣、唐代になると十数回遣唐使を送るようになりました。こうした歴史からもわかるように、日本人は政治、経済などを治める律令制度、ひいては芸術や仏教文化を東アジアから吸収したのです。

−−ヨーロッパでもオリエントでも画材をかついで壁画を見てまわり、その模写を行なった。日本に戻った66年からは法隆寺金堂の壁画の再現模写を始める。70年代になりようやく悲願の中国へ。中国渡航を繰り返す平山画伯が敦煌に初めて足を踏み入れたのが79年、以来、敦煌は画伯にとって大きなテーマになっていく。

平山 広大無辺の砂漠の中で、風化が進み、窟院そのものが砂に埋まる危険さえありました。この風化、剥落を止め、敦煌芸術を保護するためには人材育成や研究施設の充実が欠かせません。しかし、当時中国は自国の文化財保護は自国で行なうという原則があり、協力は容易ではありませんでした。敦煌研究院の段文傑先生と話し合いを持ちながらも、私個人で200万ドルの敦煌研究基金を作り、その利子を研究費に充ててもらいました。

また、個人でできない部分は日本の外務省にも働きかけました。88年、竹下首相が中国を訪れると敦煌遺跡保存協力を表明、これを機に日本政府が総額10億円を無償援助し、ついに「敦煌石窟文物保護研究陳列センター」の建設(開館は95年)にこぎつけました。

前述したとおり、保存には人材養成が不可欠です。現在でも中国人留学生を受け入れ、模写や技術の研修を行なっています。一方で、「平山奨学金」を設けて渡航費、滞在費、学費のすべてを持ち、毎年、中国人を早稲田・慶応に留学させてきました。彼らは現在、中日友好協会や外交部の幹部として働いています。

これほどまでに敦煌にこだわる理由は、ここでの研究の基礎と基本原理は中国のその他の場所、たとえば西安などでも応用できるものだからなのです。また、支援は日本が金と人を投じるだけではダメ、ましてや中国のトップレベルの人を支援するのにとどまっては意味がありません。文化財を誇りにしているのは何といっても地元の人たち。末端で苦労しながらも腕を磨き、文化財を保護していきたいという人を伸ばしてやらなくてはならないのです。

−−「仏教伝来」(59年)をきっかけに画のテーマは仏教幻想画に転じ、68年のシルクロード取材旅行以降、平山画伯はその半生を仏教伝来の道の追及に投じていく。その集大成が奈良・薬師寺の玄奘三蔵院を飾る「大唐西域壁画」でもある。このように平山画伯の作品は極めて仏教的な色彩が強い。

平山 1945年8月6日、私は広島で被爆しました。中学校の生徒188人、先生13人の201人を一瞬にして失いました。私は爆心地から3キロの兵器廠で作業をしていたのですが、幸い生き残りました。が、その後1958年ごろから原爆の後遺症の白血病に悩まされ始めました。

従来、自然や生活体験を題材に描いていたのですが、それからテーマが変わったのです。私は鎮魂と平和を仏教的思想に結びつけ、絵を描くようになりました。シルクロードの旅に出たのも「どうしても仏教伝来の源流が見たい」という気持ちがありました。それはすなわち日本文化の源流を求めての旅でもありました。玄奘の歩いた求道の道と仏教伝来の道、そこに東西文化の交流のシルクロードが重なるなど、私の目標は何重にも交差するようになりました。

敦煌への文化協力もそんな私の思いと重っています。また敦煌に限らず、シルクロードや中東、インドなどの遺跡にはいろんな文化の源流があります。が、盗掘さたり壊されたりしているものも多い。これらはみな日本の文化と関係があるからどうしても守らなければいけません。中には身銭を切って保護しているものもあります。幸い、私が描いた画を買ってくれる人が存在しますので。これがぜんぜん売れてなければしょうがないのですが(笑)。私の活動を知った上で買ってくれる人もおり、こうした浄財を現地への保存活動に回すことができるのです。

−−本職は画家。しかし、一時は60を超える公職に就いたことも。現在でも、日中友好協会会長、日韓文化交流会議座長、東京国立博物館特任館長ほか、外務省、文化庁では審議会の座長なども務めている。またユネスコ特別顧問という立場では、アフガニスタンのバーミヤンの石仏への爆撃をタリバンから阻止するため、自宅にナンバーツーを呼んで会談をしたことも。芸術家としては希有なほどに社会活動の表舞台に立つことが多い。

平山 2000年3月、タリバンのナンバーツーを日本に呼んで密かに和平交渉をやろうということになったのですが、タリバン政権を認めていないので外務省では交渉できません。そこで私に「ユネスコの立場で対応してくれ」という要請が来ました。この話し合いでまずは第1回の爆破は阻止できました。すると今度は反タリバンの北部同盟の代表が来たのです、「内戦をなんとか止めたい」と。まさに鎌倉の自宅、この部屋で話をしました。そして「文化による和平交渉」に向けて順調に走り出したのです。金銭的に不足があれば私が支援することも申し出ました。が、01年3月にタリバンがバーミヤンの大仏を爆破してしまいました。原因は国連決議に基づく大国の経済封鎖でした。

大仏破壊は、「罪のない女性、子ども、老人が飢えに、寒さに犠牲になっているのに、大仏だけを保存すればいいのか」というメッセージだったと思うのです。物だけ保護してもダメ、罪なき一般人を助けなければならない、と私もユネスコ本部に訴えました。戦争になれば文化財保存どころではありません。私自身、戦争を体験しているだけに、戦争の悲惨さを語り継ぎ、2度と戦争があってはならないと訴え続けてきました。

−−40年来のシルクロードへのスケッチの旅で、戦禍と紛争の中で崩壊の危機に瀕している貴重な人類の世界遺産があることを知り、それら文化財を救うことが自らの使命だと受け止めるようになった。平山画伯は20年前から「文化財赤十字構想」の建設を描き、その実現に向けて動き出す。そして、06年、ついに立法化にこぎつけた。

平山 06年6月末、国会でひとつの法律が与野党満場一致で採択され成立しました。「海外の文化遺産の保護に係る国際的な協力の推進に関する法律」という名前の法律は、官民挙げて、日本が世界の文化遺産を保存・修復することについて国際協力を推進するためのものです。それぞれの組織がバラバラに支援をするのではなく、コンソーシアムを作って日本の顔が見える国際貢献を文化の面から行なおうと「文化遺産国際協力コンソーシアム」を結成しました。

現在、法の後ろ盾を得て、インドネシアでは地震で崩壊したパレンバナンで修復を行っています。また、中国ではシルクロードの遺産の保存のため、毎年甘粛、陝西、ウイグル自治区、青海、寧夏、河南の各省から数人を招聘し、修復保存技術研修プログラムに参加してもらっています。これは5年計画で100人を養成する予定です。

−−1号(はがき1枚の大きさ)の画につく値段は600万円とも。しかし、この超人気作家は有頂天になることなく、その財産を使うべきところに使ってきた。周囲の人々は平山画伯に対して畏敬の念を込めて「超人的」だと言う。世界の要人も「ミスター・ヒラヤマだから話を聞こう」と耳を傾ける。日本人でも稀に見る存在だけに後継者の有無が気になる。

平山 残念ながら後継者は期待できないでしょう。こうした仕事は、単に役職でやっているのではありません。また、名前だけあっても実際には経済力がなければ務まらない。人のフトコロを当てにするのではなく、身銭を切らないと説得力がありません。

一方、芸術家は自分のための芸術を追及する人が多いのですが、私は被爆という大きな十字架を背負っています。わずかの差で分かれる生死。幸い私は生きています。だからひとつひとつをちゃんとやらないと死に切れないのです。画に対しても、文化財保護活動に対しても「この程度でいいのでは」は許されない。ましてや、自分さえよければ、というのも通用しないと思っています。

−−国際化が叫ばれて久しい。中国でも今や8万人にものぼる日本人が生活している。しかし、日本の文化、歴史を知らない日本人が多く、また日本、日本人は何を誇るべきかを忘れてかけている。深刻なのは、いくら経済大国だとしても日本人はなかなか国際社会のなかで尊敬を集めにくいことだ。

平山 日中関係については安倍総理になってスタート地点に立ち戻ることができました。しかし、政治の方面ではよくなっても民間の対日感情はそう簡単には治らない。過去に日本が行なった「侵略行為を認め、前向きにいきましょう」と言わないといつまでたっても「行きつ戻りつ」になってしまいます。
私自身、日中友好協会の会長をやりながら世界の国々を見てきています。日本は戦後62年にわたり1発の銃弾も撃ったことはありません。それ以上にODA(政府開発援助)においては大変な額を拠出、対中ODAについては1979年以降、総額約3兆円以上のODAを実施するなど、平和憲法のもとに国際支援を行なってきました。一方、先進主要国は結局武器を売りつけ、武器を作る能力のない民族同士に殺し合いをさせているという現状です。国連の常任理事国も「武器持つな、核持つな」と言いながらも実際は矛盾に陥っています。

日本のいいところ、これをもっと主張しないと中国の人たちには伝わりません。中国人のマインドも60年前のままで今に至っていることも少なくないだけに、日本人がきちんと主張することは非常に大切なことなのです。

一方、中国へ日本人が出て行き、そこで品格のないことをやっていることを耳にしています。これはさかのぼれば教育の問題。親の、大人の教育からやり直さなければなりません。「国際的に自ら律し、世の中のために仕事をしようという精神」がなくなったら、以前の侵略時代よりもっとお粗末です。

親が子を殺したり、いじめを受け自殺をしたり。今の日本は末期的症状が出ています。競争原理によって強いものが勝つのは当然のような風潮があります。しかし騙してもいいのか。カネを儲けるためなら、老人、弱者をだましてもいいのか。昨今の「振り込め詐欺」は目に余ります。日本人の精神は病んでいます。これは敗戦当時よりひどい。まずはそれを日本国民全員で認めることから始まるのではないでしょうか。

自然とともに生きる農耕民族、その自然の四季の移り変わりが日本人のキメ細やかな価値観を生みました。日々のうつろいから生まれた日本人の感性は決してドライなものではありません。その日本人が持てる文化こそ安倍総理がいう「美しい国日本」という意味ではないでしょうか。海外で暮らす日本人のみなさんにはぜひこの部分を知っておいてもらいたいと思います。■


■平山郁夫 略歴■


1930年 広島県瀬戸田(生口島)に生まれる。
1952年 東京美術学校(現東京芸術大学)日本画科卒業
1959年 「仏教伝来」はのちに続く仏伝シリーズの第1作目に
1961年  「入涅槃幻想」で日本美術院賞(大観賞)を受賞
1962年  ユネスコフェローシップ奨学金で渡欧
1973年  東京芸術大学日本画科教授
1975年  日本美術家代表団団員として初めて中国へ
同年、日本文物美術家友好訪中団団長として中国へ
1989年 東京芸術大学学長(95年退官)
1992年 日中友好協会会長
1994年  文化財保護・芸術研究助成財団理事長
1995年  ユネスコ特別顧問
 南京城壁修復協力日本委員会会長
1998年 文化勲章受章
2001年 東京芸術大学学長に再任(05年退官)
2002年 中国政府より文化交流貢献賞を受賞
2005年 東京国立博物館特任館長
2006年 文化遺産国際協力コンソーシアム会長

■文化財保護・芸術研究助成財団について■

平山画伯が理事長を務める文化財保護・芸術研究助成財団でも、文化財修復技術者の人材育成や、研究者の交流にも力を入れ、シルクロード沿線の6つの省(陝西・河南・甘粛・新疆・青海・寧夏)の博物館などに勤務している若手研究者を5年間で100人程度を研修し養成する計画を持っている。この支援に名乗りを上げたのが韓国サムスングループ。サムスンのトップらもまた平山画伯の活動に価値を見出したと言われている。文化財保存修復の専門家育成プログラム「サムスン・シルクロード文化財保護フェローシップ」を立ち上げ、中国国家文物局と連携し、文物研究所文物保護修復トレーニングセンターや東京文化財研究所の先生方が指導する研修を実施している。http://www.bunkazai.or.jp/


【平山郁夫を知る本】 

『この道一筋に』 平山郁夫ノート 同文書院
『道遥か』 自伝画文集 日本経済新聞社
『おはなし名画シリーズ 平山郁夫と玄奘三蔵』 博雅堂出版
『21世紀のアジアと日本』西原春夫対談 成文堂
『悠久の流れの中に』 三笠書房 知的生き方文庫
『日本の心を語る』 中央公論新社
『私の青春物語』 講談社
『道はあとからついてくる――「家計簿」にみる平山画伯家の足跡』 主婦と生活社
『薬師寺への道―大唐西域壁画』 集英社
Posted at 21:23 | バレエとかいろいろ | この記事のURL
今年最後のお芝居を  2008年12月26日(金)
今年最後のお芝居を

20年来の友人のひとりに俳優でメシを食っている人間がいます。
毎回、舞台の案内を送ってもらうが、
いまだ行ったことはありません。

今回もまた案内をもらいましたが、
どう考えても、この暮れの押し詰まった時期に芝居などを観るという心のゆとりがなく・・・。

でも、「2本立てで両方女性の切なさを描いた作品です。
ちょっと泣き、笑えます」というところにグラと来ました。

男のあなたに描けるかしら?
ちょっと挑戦的な反応もあります。


私は行けませんが、
ひょっとしたら、どなたか芝居好きの方のど真ん中にはまるればと・・・。



場所は神楽坂。いいですねえ。芝居のあとに一杯、というのも。

ちなみに、俳優の下総源太朗さんは、07年に柄本明氏とともに上海を訪れています。

1937年に南京に滞在していたドイツ人ジョン・ラーベ氏が書き残した日記を映画化するに当たって、悪い日本軍人の役で出たとか。こちらは公開未定。


第6回 ZORA公演
『エレベーターの鍵 /灰色の時刻、あるいは最後の客』
日程
12/26(金)
〇14:00
〇19:30
12/27(土)
〇14:00
〇19:30
12/28(日)
〇14:00
全5ステージ(上演時間は1時間30分ぐらいの予定です)
会場
シアターイワト(神楽坂)
新宿区岩戸町7
03-5225-3635
東西線「神楽坂駅」徒歩5分大江戸線「牛込神楽坂駅」徒歩2分JR・地下鉄「飯田橋駅」徒歩7分

□作:アゴタ・クリストフ
□演出:下総源太朗

□¥2,800(前売り当日とも・全席自由)

詳細はこちらをご覧下さい。
http://zora.blog.drecom.jp/
アゴタ クリストフの戯曲2作品を下総演出で届けします。弦楽の生演奏もお楽しみ頂けます。作曲も衣装も舞台美術も今回の為の特別仕様です。今年の終わりに良質の芝居を…
Posted at 11:21 | バレエとかいろいろ | この記事のURL
岡本太郎のアトリエ  2008年12月24日(水)
岡本太郎のアトリエ


岡本太郎のアトリエ(渋谷区)を訪問しました。
しんしんと底冷えするアトリエでしたが、
爆発する彼はそんなことはおかまいなし、だったのでしょう。

一平とかの子の間に生まれて、
おもしろいのが太郎の夫人敏子さん曰く、
「岡本太郎は生まれながらにして岡本太郎だったわけではないの。
自分の力で岡本太郎になったのよ」

今、その敏子夫人の太郎伝を読んでいます。

そもそも母親のかの子が変わり者でした。
これは『かの子繚乱』に詳しいです。

枠にはまりきらない奔放な彼女を見込んだのが、
跡見学園の建学の祖、跡見花蹊でした。

そういうはみ出しものを見出すぐらいのホンモノの教育者が、
果たして今の私学に存在するのでしょうか。

かの子クラスの、
“破壊力を持った創造者”はこの世に誕生し得るのでしょうか。

太郎もまたはみだしもので、もれなくいじめの体験を味わった一人。

アタマの切れる太郎は、書き順が間違っていたからといってビンタ、
態度が悪いと因縁をつけられビンタ、
そういう非論理的な行動に出る公立小学校の教師に嫌気をさし、不登校に。

たらいまわしにされて最後に行き着くところが慶応幼稚舎でした。

入学試験は校長先生のひざの上に座らされて、
懐中時計の針の音を「聞こえるか?」(校長)
「聞こえない」(太郎)でハイ、合格。

この滑稽な試験の意図するところがつかめないのですが、
私学はそれぐらいユニークだったということですかね。

抑圧があって才能が生まれる、
私はそう信じています。
そして抑圧を抑圧と感じられる感性がもって生まれたものだと。
こればっかりは後の教育をもってどうこうはできないと思います。




Posted at 08:23 | バレエとかいろいろ | この記事のURL
中国から引き揚げてきた漫画家さんの作品展  2008年12月04日(木)
中国から引き揚げてきた漫画家さんの作品展


日中友好条約30周年を記念して「日中漫画家展」(11月27日〜12月6日・土)が元麻布ギャラリーで開催されている。

石川好先生よりご案内を頂いたので行ってみた。

森田拳次先生、鮎沢まこと先生、ちばてつや先生、やなせたかし先生ほか、多数の、中国から引き揚げてきて、そののち、漫画家となった先生方の作品が多数展示されていた。

私にとってなじみのあるところで、やなせたかし先生のアンパンマンの作品。

「やなせたかしさんは上海で兵隊をしていて、道端で息も絶え絶えになっていたところを庶民が恵んでくれたカンパン(らしきもの?)で生きながらえたとか。そのカンパンがきっかけでアンパンマンが生まれたらしい・・・」

そんな話も聞いたことがある。

つまり、正義の味方とは本当は「カンパンマン」だったのだ。

また、名前を忘れてしまったのは残念だが、ある漫画家の先生は、攻め込んでくるソ連兵に見つからないよう、身を潜めながらもぐずる弟に漫画を描いてあやしてやったという。そんな経験がその後の漫画家の道につながった。

同時に、それぞれの先生方の戦争体験を漫画にし、それを編集した画集が中国で出版された。(180元)その本も手に取ることができた。

男性漫画家に混ざって、「女流」も健闘。田村セツコ先生や里中満知子先生のタッチには、ほっとするものがあった。

田村セツコ先生の作品は、自らが牛馬の被り物を着て大八車を引いているもの。
「これから牛馬のごとく働かなければならない」と大人たちが言っているのを、「自分がどうやって馬になるのか」と一生懸命に想像を張り巡らしたご本人が愛くるしい。戦争という緊張状態を背負っていても感性は失われない、そのみずみずしさを目の当たりにした。

森田拳次先生の作品も興味深かった。その作品の解説からは、当時父親が満映で働いたことから、満映理事長をしていた甘粕正彦とは非常に近い位置関係にあることが伺えた。森田先生は当時まだ小さかったが、甘粕正彦から直接赤い小さな包み(青酸カリ入り)を渡されたことを記憶している。

そんな描写も生々しく、歴史とはそれぞれの人生にもまた刻まれているんだ、と当たり前のことを思ってしみじみとした。

これら202点に及ぶ作品は12月7日にオークション(14時〜、シンワアートミュージアム:銀座7-4-12)に掛けられる。ご関心のある方はぜひ。
Posted at 22:01 | バレエとかいろいろ | この記事のURL
バレエから見た五輪  2008年08月25日(月)
バレエから見た五輪




昨日、日曜日は久しぶりのお稽古だったんですが、いきなり「ワガノワ」には参りました。

ワガノワとは、270年の歴史を持つワガノワ・バレエ・アカデミーのメソッド。同校はニジンスキー、パブロワ、バランシン、ヌレエフ、バリシニコフなど世界的な舞踏家を排出してきました。

脂を搾り取るぐらいに基本に忠実で、やった後はほぼ脱水症状の上、失神状態に似た症状になります。

私はもともと英国ロイヤルバレエ団の教授法でレッスンしてきたのですが、その違いも去ることながら、最近、教授法はこの30年余りで驚くべきほど進化した、ということを痛感しています。

ところで、今日は特に北京五輪の出場選手をクローズアップした番組が多く、それを見ていてとても不思議な思いでした。

日本では元メダリストのお父さんが息子や娘に伝授する、それがいまだ普通に行われているんだー、と。


私はこれまで「ロイヤル」が絶対のものだと信じてきました。その教授陣の教えに忠実であろうとしました。ロイヤルアカデミー・オブ・ダンシングの試験に落ちたときは、この世の終わり同然でした。

しかしながら、今では当時の教え方も風化し、より科学的な根拠に基づいての指導法になりました。当時、絶対だったものも否定されるようになりました。

そして結果としてたどりついたのが、ロイヤルだろうと、ワガノワだろうと・・・という考え。バランスの持続力が続く、或いは回転数がこなせるんであれば、どっちでもいい、ってことですね。

それが今の私の心境です。

もちろん、オリンピック選手の心境とはくらぶべくもありませんが。

でも、誰が私の指導者なのか、はとても重要です。少なくとも私は今のお稽古場に来て格段の成長を遂げました。小さなスタジオですが、よき指導者に恵まれ、とても幸せです。



Posted at 21:38 | バレエとかいろいろ | この記事のURL
自己陶酔こそがバレエの発表会の醍醐味  2008年08月02日(土)
自己陶酔こそがバレエの発表会の醍醐味 

・・・かくして母は無事踊り切りました。年齢なんか関係ない、好きだから、踊りたいから永遠にチャレンジする、とてもすてきなことだと思います(けれども中国は違います。基本的にバレリーナ=職業舞踊種ですから。好きだから、はまだまだ通用しないところがあります)。

さて、松山バレエ学校の生徒さんは、その独特のスマイルが魅力です。上半身の表現だけで「ああ、松山の生徒さん」だとわかります。楽屋には「スマイル、スマイル、スマイル」のスローガンが貼られていて(今年は控えめでしたが)、お稽古においても、何にも増して「笑顔」が大切だと指導されるようです。

実はこれ、清水哲太郎さんの北京時代の影響だとか。文革当時、指揮者を目指して留学中だった清水哲太郎さん、こうした中国独自の「スローガン文化」の影響を受けて帰ってきたというお話を伺ったことがあります。


さすが松山バレエ学校。みなさま、きれいどころである以上に、個性の集まりであることが、手に取るようにわかりました。「私が一番」といわんばかりに気持ちよさそうに踊っているのです。
「私が一番」というのは日本人がとても嫌う部分でもありますが、バレエの第一条件である美につながるという意味では、誰もが「自分こそが最も美しい」、と思っていて間違いないだろうと思います。そして、その自己陶酔の瞬間こそが発表会の醍醐味であろうと思うのです。逆に言えば、自分に酔えることが踊り手に必要な要素なのかもしれません。

私も確かに彼女たちの世界に引き込まれました。プリマが踊る名作以上に。ああ、こんなに気持ちよく踊っている。最高に自分に酔える瞬間なのだろうと。

いずれにしてもそれを実現するには観衆が必要です。

「家内がやってるんで、今日は“ブラボー”を言いに来たんですよ」

そんな会話が背後で聞こえました。

きっとご主人は奥さんの、ふだんとはまったく異なる表情を見、その世界に引き込まれただろうと思います。

観衆も友人や家族の出番に手に汗握り、そしてさわやかな拍手を贈る。とてもすばらしい舞台でした。



翻って上海。今夏、私の上海の師匠の発表会に駆けつけました。子どもたちの頑張りがわかって、とても微笑ましい舞台でした。

でも一方で、こんなことも・・・。

生徒さんのほとんどが日本人。観に来ていらっしゃる方もほとんどが日本人駐在員だったと拝察しました。ところが、おしゃべりに居眠り(特にお父さん!)、禁止されているビデオ撮影・・・。え、まじ?

とてもがっかりしました。

上海にはある種自由な空気が存在することは確かですが、しかし、もともとマナーがいいはずの日本人が、ここに来てローカライズ(?)されてしまうのはいかがなものかと。(これはすでに日本人が上海で展開するビジネスにおいても指摘されています。中国人はあれだけマナーのいい日本人が、どうして上海に来ると豹変するのかに疑問を持っています)もっとも、最近はローカルの人たちもマナーが向上してきていますが。

最近は東京にも中国の国家舞踊手が来日し、お稽古場を開くケースが散見されます。ところが、発表会をご覧になった専門家からは「子どもたちの振り付けはスキップばかりで残念」というコメントを聞きます。同様のことは、今回の発表会でも気になりました。恐らくこれは、指導者の数と生徒の数のバランスを欠いてしまったために生じた問題では?と思いました。

限られた時間の中で完成度の高いものを求めるには、指導する側の覚悟はもちろん、保護者の協力も必要になってきます。完成度を高くしようと思えば、お稽古の時間を増やさなければならない、それをするには家庭のスケジュールを調整しなければなりません。また、それには何より保護者のバレエへの理解が必要かと・・・。バレエはコスプレではありません。衣装を着るため、かわいいわが子を写真に撮るための手段ではないのです。

また、指導する側も配慮が必要です。
せっかく日々、基礎練習をしているのだから、本人もその成果をものにしたいし、観衆は本人のチャレンジを見たいのです。そして選曲、振り付けに思う存分頭を悩ませてください!少なくとも、発表会を見に来てくれる観衆のことも頭においてください。そして、そこにかける金額(バレエの発表会は大変お金がかかります)に見合うだけの作品に仕上げてください。


最近のバレエブームはバレエ文化への理解者が増え、バレエファンの私もとてもうれしい限りですが、だいぶ本筋からズレたところでブームが展開しているようなので、ちょっと不安です。

教える側は妥協を許さない指導を、また教えを受ける側はマナーと尊敬を・・・。少なくともこれが感じられた本日の発表会は、暑い中はせ参じた甲斐がありました。

Posted at 19:14 | バレエとかいろいろ | この記事のURL
清水先生亡き、松山バレエ学校発表会  2008年08月02日(土)
清水先生亡き、松山バレエ学校発表会
(母にとっては4回目の発表会)

 今日、67歳の母が4度目の舞台に立ちます。毎年も無事に行われることを祈る松山バレエ学校の発表会ですが、今年6月に創立者の清水正夫さん(享年87歳)がお亡くなりになったこともあり、どこか寂しさの拭えない発表会になるかもしれません。遅ればせながら、ご逝去、心からお悔やみ申し上げます。

 子どもの頃、バレリーナを目指していた母が猛反対で夢を断念、しかし60歳を過ぎて毎日稽古に通う姿は誇らしいものがあります。

 そのきっかけは森下洋子さんへのインタビューでした。50歳を過ぎても全幕を踊りとおすその力強さを、私が母に報告したことが、母をして松山バレエ学校の門をくぐらせるきっかけとなりました。

 ところで、松山バレエ団といえば日中友好のまさに架け橋でした。今に見る活発な経済交流が始まる以前に、芸術を通して日本と中国が歩み寄った、その歴史の舞台でもあったのです。

 05年に松山バレエ団と中国のつながりについて取材しましたが、これは私の数多くの取材のなかでも十指に残るものだったといえます。

 特に清水正夫さん御自ら、当時の様子をお話いただいたことは、大変記者冥利に尽きるものでした。


 詳細は『SUPERCITY』のバックナンバー(11ページ)を開いてみてください。

http://www.chinasupercity.com/pagemakely/200504CHiNA/PageMakely.html

 今年5月8日、胡錦涛国家主席は松山バレエ団を訪問しました。要人の訪問があるたびに、バレエ団団員の歓迎の準備に、お稽古場はものものしい雰囲気に変わるそう。

 いまも生きる交流の、その原点をぜひご覧いただければと思います。
Posted at 11:21 | バレエとかいろいろ | この記事のURL
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